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白菊と弥兵衛
白菊は一人、部屋で二つの三味線の音を静かに聞いていた。一つは如月の奏でる音。儚くも芯のある優しい音色。もう一つは弥兵衛の奏でる音。心をそ、と包み込まれるような、抱擁感のある響き。
「全く、妬けるの…」
いつの間にか、その弥兵衛という男は白菊の心に住み着いていた。
あの日、初めて顔を合わせたあの日から時々この廓に顔を出すようになった男は、いまだに白菊を座敷に呼ぶことはない。
「弥兵衛さん、まだ暗い、気いつけて帰られよ」
巳介の声がふと聞こえた。下を見下ろしてみると、店先に弥兵衛と巳介の姿。白花色の着物の上に藍鉄の羽織を羽織ってたつ弥兵衛。白菊はしばしその姿に見惚れた。
「!」
弥兵衛がふと、上を見上げた。白菊は咄嗟に打掛の裾で口元を覆い隠す。
「今宵も月が綺麗じゃの」
空に浮かぶ月に、ふと弥兵衛が呟いたのを白菊は聞いた。
「それでは、お暇いたそうか。」
「は。またのお越しを花菱屋一同、お待ちしております」
巳介の挨拶を最後に、弥兵衛は振り返ることなく帰り道を歩いていった。
「如月はいるかえ」
「なんだい、と、聞くまでもなさそうだね」
「弥兵衛さまのことさ、あのお方何か申していらしたか」
如月を呼び、弥兵衛との一部始終を聞き出す。何を話したか、三味線の連弾きのこと。不思議と嫉妬は湧かなかった。
「なんと、この白菊に会いとうないと申すか」
「会う気はないとおっしゃった」
「それは誠のことかいな」
「誠のことさ」
まさか、自分とのことなどあの男はとうに忘れ、嫌われてしまったのか、と一抹の不安を過らせる白菊に、如月は
「嫌ってなんかいないさ、弥兵衛さんは。落ち着きなはれ、白菊や」
と、言葉をかける。
「おや、白菊や、その包みは何かえ」
「こちはのう、弥兵衛さまのご料亭の肉饅頭だよ」
白菊はそれを包みごと掌に持ち、胸に押し抱く。ふと如月はその頬が紅潮しているのに気がついた。
(全くもって、面白い人らだわいの)
如月は打掛の裾を口元によせ、ふふ、と笑って見せた。
「もうし、何を笑っておられるか」
ふんすと頬を膨らませ、怒る白菊を見て、如月は少し心がす、とするような感覚を覚えた。
「弥兵衛さま」
頬を紅潮させながら月に向かい、白菊は続ける。
「お会いしとうございます、もうし、お月さん、この気持ち弥兵衛さまに
届けてはくれないかいな」
空の月は何も言わず、白菊と如月を照らしていた。
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