1人が本棚に入れています
本棚に追加
吉野屋
「父上、お呼びですか」
父の部屋の襖を引き開ける。
「入れ」
「失礼致します」
文机に向かい、何か書き物をしている父の頭には既に所々白くなっている。筆を握る手は少しばかり骨張っただろうか。
「弥兵衛よ、近頃廓に足繁く通っているようだが」
「足繁くなど、そのようなことはございません」
「そうか」
弥兵衛の幼き頃から父は無口で厳格な雰囲気を纏った男であった。
「父上は、そのようなことをお聞きになりたくて私を呼んだのか」
「いや、そのような事はない。今日はお主に話があって呼んだ。」
硯に筆を置き、弥兵衛を自らの元に招く。弥兵衛は文机の向かいに静かに座った。
「話というのは」
「お主の縁談の話だ」
ぴし、と空気が硬くなった。弥兵衛の膝に礼儀正しく置かれている手は、拳を握り、着物には皺が寄る。
「縁談でございますか」
と、平静を装う弥兵衛の額には嫌な汗が一筋。
「ご贔屓のご息女さんだ。家柄も身分も申し分はない。」
「…」
「よく考えてみよ、弥兵衛よ。お主はゆくゆくはこの吉野屋を継ぐ立場におる。」
吉野屋の長男に生まれたというのは、そういうことだ。夢に惚けていた弥兵衛にその言葉が深く突き刺さる。廓での時間はまるで夢幻。
「縁談のけんは、しばらく考えさせていただきとうございます」
「わかった、が。あまり待たせるものではないぞ。」
「心得ております。それでは」
そう言い、弥兵衛は部屋を後にした。あまりにも唐突な縁談話。しかし。何かを言える立場ではないことも弥兵衛は重々承知していた。
『吉野屋は長い歴史を持つ料亭だ。お客様らの想い、働くものの想いがあるからこそ、こうも長う続いたのだよ。この思いを途切れさせちゃあいかんよ。』
幼い弥兵衛は父の膝の上でそんな話を聞いた。弥兵衛は幼い頃からその小さい背中にどれだけのものを背負って生きてきただろう。
「私の、勤めなのか」
いつからだろうか、それがずんと重みを増したのは。
ふと見上げた空は、青かった。
最初のコメントを投稿しよう!