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宵白菊
白菊は齢13で花菱屋に売られてきた。家族に何があったかは知らないが、金銭面の問題で売り飛ばされて花菱屋にやってきた。白菊より四つ上の如月は水揚も既に終わり、客をとっていた。
如月は、その美貌と三味線の腕前もあり、瞬く間にして、太夫の座へと上り詰めた。それを追うようにして白菊もまた太夫の座に座った。如月は白菊のことを妹の様に気にかけていた。それに応えるように、白菊もまた、如月を姉のように慕った。
「如月、いるかい」
「なんだい、白菊。今夜の予定はないのかえ」
打掛をまとった傾城白菊は、如月太夫の打掛の裾をふいと引き、気を引く。
「弥兵衛さまはいらしゃらないのかい?」
今宵も今宵とて、白菊の心はここにあらず、よその男の元に旅をしている。
「最近浮かない顔をしてたのはそういうことだったんだね?たしかに、ここらはきてはいないのう」
納得したように、後毛を耳の後ろにかけるような仕草をしながら、白菊の方をちら、と見る。
眉頭をあげ遠くを見据える白菊がそこにはいた。いつも月を眺める白菊はそこにはいない。
「なにか、あったんじゃないかいな、わしゃ心配でままならん」
「…白」
バタンと慌ただしく襖が開いた。
「なんだい、なんだい。おや、巳介のだんさんじゃないかい」
「だんさん、なにかあったのかいな」
巳介の顔は青白く、手先は小刻みに震えているように見える。
「大変だよ弥兵衛さんが、」
言い切る前に白菊は立ち上がった。重い衣装がバサバサと音を立てる。
「だんさん、少し落ち着いて話してくださんせ」
如月は巳介を落ち着かせ上座に座らせた。巳介は袖口からはんかちを出し、額の冷や汗を拭う。冷や汗は拭いても拭いても溢れ出る。白菊も落ち着かない様子で打掛の裾をきゅ、と握る。
「最初から落ち着いてゆっくり話してくださんせ」
「あ、ああ」
「だんさんっ⁉︎弥兵衛さまになにかあったのかいな…⁉︎」
「これ白菊」
身を乗り出して問い詰める白菊。如月は冷静な態度を崩そうとはしない。
「だんさん!だんさん!」
「白菊ッッッ…!」
「ッッッッッッ!」
「落ち着きなと言ってるのがわからないのかい?」
「すんまへん、」
如月がこれまでには無いように声を張り、白菊を制止する。白菊も初めて見る如月の顔にすと、何かが腹に落ち着いた気がした。
「すまへんだんさん、取り乱してしもうて」
「お話をお聞かせくださんせ」
「ああ」
ーー先ほど、吉野屋の旦那が来はってな、もうすには、今朝方から弥兵衛さまの姿が見えないそうな。花菱屋にはきておらぬかと尋ねられたところ、来てはいないと言うたら、泡吹いて気をやってしもうた。聞くには、昨夜のことだ、吉野屋のある楓街の一つ先、飯島町の飯島川で人が流れているのが見つかったそうな。漁をしていた町人の井出島栄助が見つけて釣ったらしい。昨夜、楓町の紅葉川で何かが落ちたような音がしたと言う声も聞く。紅葉川は飯島川と同じかわだ。
もしやすると
「身投げしたって言うのかい、弥兵衛さんが」
すかさず如月が聞いた。
「辻褄が会っちまったんじゃ、否定のしようがないわいのう」
巳介も頭を掻く。
「…大丈夫かえ」
白菊は真っ青な顔で座ったまま震えている。真隣に座る如月にもその震えが伝わるほどに、白菊は畏れていた。目を見開いて、その目は据わっている。そんな白菊を横に如月は口を開く。
「だんさん、聞いてもよろしいかいな」
「ああ」
「その井出島の栄助とやらに会うことはできないかいな。このままでは白菊が報われない」
「不可能では、ない、しかし」
「会わせてくださんせ」
静かな一声が上がる。決して大きな声ではない。しかし、芯のある一声。頬に涙を一雫垂らしたまだ幼なげのある顔が巳介を見つめる。
「どんな結末であろうが、わたしゃあん御方の顔がみたい。たのんますだんさん、いかせて下さんせ」
立派な立兵庫の髪を彩るえりずりが畳に付くほどに深々と頭を下げた。その細い指先はかたかたと震えを残す。
「わたしからも、お頼み申し上げまする」
白菊の隣で如月も深く頭を下げる。
「この如月、一生の頼みでございます、巳介さま、どうか」
「ならば準備をせねばのう。お雪そこにおるか」
「あいこちらに」
「準備を」
「あい」
そのやりとりをキョトンとした目つきで眺める傾城と謳われる女が二人。目を真ん丸くして見世の旦那とその女房を見ている。
「もし、だんさん、一体何をしておられるか」
「お主ら自分の格好を見たことはないかいな」
と、問われ二人は互いにお互いの姿を見合う。豪勢な玉簪や、鼈甲の笄をいくつも差し、大櫛は立派な立兵庫を隠すほど。体には美しい打掛を纏い、鮮やかな糸に彩られた大きな前帯。
「笑止」
如月が笑いながらそういった。
「こりゃあこんな姿で街に出てしもうたら見世物もいいところだわいな」
呆けたような面で白菊もいう。
「これを着ていきなされ」
二着の着物。藤鼠の色に、薄く梅の花が刺繍されたもの、もう一つは桜鼠に菊の刺繍の入ったもの。
「久々だわいのう、こんな着物着るのは」
白菊はしみじみとしながら仕事着を脱ぎ去り、着物に袖を通す。軽くて涼しかった。
「だんさん…わたしは」
着物を握りしめ、如月は巳介にとう。
「わたしも行って良いと申されたかいな、聞き間違いではないかいな」
「如月、行っておくれや。井出島さまには早馬で伝えてある。白菊のことは主に任せる」
「如月…?」
──!
如月の頬に何かが光った。涙だ。
「ありがとうござんす」
涙まじりにそう口にした如月は、ぱと着替えを済ました。
数年ぶりに花菱屋の戸を開く女が二人。花菱屋の戸は静かに開きそと、二人を
外に出した。
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