9人が本棚に入れています
本棚に追加
紫菫色の闇★キスシーンあり
盛夏もこの日は気を利かせたのか、陽は高くなったものの、爽やかな風の心地良い午後だった。
引っ越しの荷解きも粗方終わり、一息ついた蔵内 禅と日比野 於菟は、小さなダイニングテーブルを挟み、気が合ったように同時と窓外へ視線を馳せた。
ベランダを見越した遠くに、勤め先の研究所が確認出来た。車を出すほどでも無い距離に、同じことを思ったか、顔を見合わせると笑みを交わした。
「結構な朝寝坊が出来るな──」
思ったことを口先に乗せた禅が立ち上がり、勢いよく掃き出し窓を開けると、一気に外の熱気が流れ込み、エアコンは大きく唸りを上げた。
ムン──と噎せ返る熱風に少し躊躇うも、煙草を手にベランダへ降りた禅は、
「なぁ……自分の部屋まで禁煙は勘弁だぜ──」
硝子越しに振り向き鼻に皺を寄せた。目を閉じ、呆れたように首を振った於菟は、
「ここも賃貸なんだからね。前の部屋を明け渡す時、懲りたでしょう?」
煙草のヤニで汚した壁の所為で、本来戻るはずの敷金は戻らず、更にはその金額を上回る程の修繕費を請求され、経済的打撃に泣いた二人だった。
「いや、煙草より、蹴り壊したクローゼットの壁と、真っ二つに割ったバスルームの扉だろ?」
咥えた煙草にライターの火を寄せた禅は、煙草の容認を訴え語気を強めた。
「──ここも破壊したら、許さないからね」
禅に倣いベランダへ降り立った於菟が、煙草の煙に手を翳して顔を顰めると、
「どう……許さないんだよぅ──」
言葉と同時に拗ねた顔を作った禅は、於菟の手首を捉え乱暴に胸に引いた。
素直にその胸へ抱かれた於菟は、寄せられた顔に『煙草くさい』と呟くも、口唇を重ねられると応えるよう、素直に自分も口唇を緩めた。
熟れた舌技に甘く酔い掛けた於菟だが、通りに面した三階だ、隣りの公園からも子ども達が上げる歓声が届き、人目を気に掛け『駄目だよ、ここじゃ』と身を捩った。
「良いよ、見られても……」
無責任な口振りで返した禅は、それでも渋々と口唇を退けたが、抱き締めた腕は解かず、もう一度と、口唇を向けた。甘い吐息に絡め『駄目』と遮った於菟は、
「──ここに、いられなくるよ」
腕からすり抜け素早く室内へ戻り、その勢いで窓を閉めるとガラス越しに『あかんべえ』を見せ笑った。追い掛けるでも無く、視線で於菟を舐めた禅は、不満を嗤い『ちぇ──』と呟いた。
煙草を吸い終えた禅がリビングルームへ戻ると、於菟はソファーに投げた洗濯物を丁寧に畳んでいた。部屋へ戻った禅に気付くと、
「──昨日の……ショッピングモールで会った子……彼女?」
唐突に口にして、禅の顔をチラ──と窺った。視線が合うと先に逸らしたのは於菟で、
「女の子……泣かすのは感心しないな──」
問い掛けて置いて、返答も待たずにボソリ──とこぼし、畳んだ洗濯物を抱えて立ち上がると、何処か気不味そうにそそくさとリビングルームから逃げた。
禅の部屋へ立ち入った於菟は、ベッドの上へ洗濯物を置き、深い溜息を一つ着いた。
真新しく白いシーツが薄暗い部屋で、ぼう──っと発光しているようだ。
この北側の部屋は、ことの外静かだった。
僅かばかり開けた窓から聞こえる風鈴の音が、於菟の耳に涼しさを届け、穏やかで静かな日常に胸を安堵させた。
それは──禅がいたからこそ取り戻せた日常だった。
最初のコメントを投稿しよう!