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再生
伊勢は加太峠に近い山間。畑とてまばらな山中に、小さな集落があった。深々と茂る竹林を背に瀟洒な館が建ち、その周りに小さな家が点在している。畑を挟んで南斜面に足を伸ばせば、更に数件、桑畑を守る様に建っている。
かつては藤森市蔵が、拾ってきた孤児を忍として育て上げるための訓練場として使用していた隠れ里であった。市蔵は他にも幾つか大和や山城のあたりに根城を構えていたが、今は地方で忍働きをする者の為に新たに整備されていた。数日は籠城して戦えるだけの武具に馬、食料も備えた小さな要塞と言っても良い。
この里も、かつてはこのように炊きの煙がたなびく様な長閑な雰囲気ではなかった。常に子供の悲鳴や絶叫が響き、不衛生な掘立て小屋がいくつか並ぶだけの、凡そ人らしい生活とは無縁の里であった。かつて市蔵以外の者を寄せ付けなかった館も、今は誰もが自由に出入りをしている。
失意の内に里に戻った葛であったが、手をこまねく間も無く、集団の模様替えに力を注いだ。碤三の手を借り、市蔵が貯め込んだ金子を使って方々に売られていた女達を請け出し、好き合う者同士には所帯を持たせ、腕の立つものには三条橋家に推挙して他家へと根回しをした。元々が若い集団であるだけに変化には柔軟で、あっという間に幾つかの所帯が出来上がり、畑が耕され、草鞋や木皮の加工品の販路も確立した。
葛が里に戻ってきてから2年余りも過ぎると、館の庭から見た景色はすっかり鄙びた山里に変わっていた。かつて、市蔵につけられた傷を癒しに裏山の小川へ赴くと、生き抜くことができなかった子供の遺体が転がっていたこともあった。ここは地獄で、自分は地獄の中でしか生きられぬのだと毎日思い知らされていた。あの陰惨で血腥い空気は最早どこにもない。春を迎え、そこかしこに花が咲き、穏やかな表情の里人達が畝道を歩いている。
体慣らしに、杖にもたれる様にしてどうにか庭に立ち、畑に目を向けていれば、生まれたばかりの赤子を抱いた女が、葛に笑みを向けてきた。
「お仙と名付けました」
「それは良い名だ。大切に育てよ」
「はい、有難う存じます。お頭こそ、どうぞお体をお大切に」
女は自信に満ちた笑みを返すと、赤子に何やら声をかけながら立ち去っていった。
自分と母にもあのような穏やかな時があったのだろうかと、葛は桜を見上げた。
「おい、春先とはいえ冷えるぞ。桜はまだ先だろう」
母の面影を記憶の中から必死に探していると、碤三の胴間声が邪魔をした。
「まだ蕾が固いな」
館の桜は、蕾がようやく桜色に染まってきてはいるが、咲き乱れるのはまだ先のことであろう。
ここのところ、こうして桜の木を見上げても母・桜子の顔が思い出せない。思い浮かぶ顔といえば、芙由子と、別れ際の澪丸の寝顔ばかりである。
「返事くらいしろって。倒れているのかと思ったぞ」
「ああ、すまぬ」
「ほら肩を使え。おれがちょっと戦働きしている間に無理しやがって」
「無理などしておらぬ。碤三のお陰で里が平穏だ」
「全てはおまえが書いた絵図だろ。俺はお姫様の仰せの通りにしているだけだ」
心配して庭に出てきた碤三の肩に寄りかかり、葛が微笑んだ。痩せてはいるが、以前の様な血生臭い影はない。それだけに、このまま治らなくてもそれはそれで良いと、碤三は葛の細い腰に手を回して歩みを支えた。
更に一年余りが経ち、竹林の中に立ち尽くして両腕をだらりと垂らした葛の姿があった。元より女のような長い黒髪は更に腰まで伸び、背中で一括りに乱暴に束ねられている。柿色の忍装束に隠された体の線はあくまで細いが、その背中には闘気が漲っている。
閉じられた双眸から伸びる長い睫毛が揺れた。同時に右手が懐から礫を放ち、放ちながら後方にトンボを切ると、つい一呼間前に立っていた場所に『苦無』と呼ばれる木の葉型の小刀が突き刺さっている。更に足元を狙って追いかけてくる苦無から逃れるように、葛は竹に向かって地面と平行に両足で飛び、弓なりに竹をしならせるようにして体重を預け、戻る力を利用して中へと飛び上がった。
竹林が風に揺れる音に気配を紛れさせていた敵の位置を把握し、着地する前に礫を四方に放った。それを避ける動作の時間差を巧みに突き、確実に仕留めていった。
「あと一人……」
と、葛の足元がぐらりと揺れ、木の葉の下から大男が飛び上がるなり真っ向唐竹割りに刀を振り下ろしてきた。しかし読み切っていたとばかりに地面を転がって間合いを外した葛が、手裏剣を立て続けに放った。無論、決まるとは思っておらず、避ける隙を突いて一気に間合いを詰め、忍刀を抜いて袈裟懸けに仕掛けた。
「甘いぜ」
大男は笑いながらその斬撃を受け止めたものの、首筋には既に、忍刀より小型の懐刀の刃先がしっかり貼りついていた。
ぐっと息を呑み、大男は手にしていた大ぶりの忍刀を放り捨てた。
「すっかり戻ったな、葛」
「まだまだだ。余裕がなさすぎて、動きが美しくないな」
肩をすくめて戯ける葛の額を、大男・碤三が憎々しげに指で小突いた。
「おうい、みんな、起きろ」
葛に斬られた筈の敵が、よろよろと起き上がった。
「頭ぁ、あばらがいっちまいましたよ」
口々に体の痛さを主張しながら、葛と碤三の周りに黒装束の若い一団が出来上がった。
「刃引きとはいえ、叩き伸せばそりゃ痛いだろう。悪かったな、付き合わせて」
「いいんですよ、頭の愛の為ですから」
「何だ、それは」
「織田島澪丸とかいう若様をお守りに行かれるんでしょ、俺たち放って」
笑いながら皮肉る若者に、葛がすまぬと笑って呟いた。そんな葛の頭を、碤三が思い切り小突いた。
「てめぇ、俺は治ってくれなくても良かったんだぞ、それを勝手に修行していやがって」
葛の華奢な顎を鷲掴みにして揺らしながら喚く碤三の手に自らの手を重ね、そっと指をとって唇を押し当てた。
「全てはおまえの真心のこもった看病のおかげだ。感謝している。里をここまでにしてくれたのも碤三の力だ。頭はやはり、おまえが相応しい」
「いらねぇわ、んなもんっ」
どかどかと派手な足音を立てて、碤三は竹林から出ていってしまった。
「相変わらず、頭一筋ですね、小頭は」
「驎太、あいつを頼むよ。世話がやけるとは思うが」
「わかっていますよ。妹に身の回りの世話はさせますし、繋ぎは韋駄天の兵衛に努めさせます。思う存分、お働きください」
驎太と呼んだ若者の頭を、葛はぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。まだ十代半ばの若者で、兄妹揃って焼け出されたところを市蔵に拾われた孤児であった。
「強盗か人殺しか……ろくでもない人生を送る筈だった俺達に光が見えたと思いきや、市蔵めは妹を淫売宿に売り飛ばして無法者の情報集めに使いやがった。頭が請け出してくれなけりゃ、妹はとっくに襤褸布のようになって死んでました」
京の都、各領地の市、港、人の集まるところに情報も集まる。それを逐一拾い上げるために、市蔵は孤児を拾っては仕込み、各地に放っていたのであった。葛はその中でも消息の知れている者で、境遇がより無残な状態にある者から救い出していた。情報を金に変えて忍の一党を大きくしてきた市蔵のやり方を捨て、戦える集団でありながらも里を構え、畑を耕す者、大名に腕を売り込んで銭を稼いでくる者、所帯を持ち子を産み育てる者、それぞれに合った持ち分を任せていた。
「皆、行って参る」
伊勢の山中深くに拓いた里を離れ、京へ繋がる街道に出たところで 葛は立ち止まった。
振り向いた山の向こう、炊きの煙がいくつも立ち上っているのが見える。人間の穏やかな暮らしがあの山奥にしっかりと根付いていることを確かめ、葛は歩を進めていった。
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