三条橋道実

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       三条橋道実

   里の野菜を担ぐ農婦の姿のまま、葛は三条橋家の邸宅の勝手口から中へと滑り込んだ。  既に下女として働いている藤森配下の中年女の手引きで、葛は寝殿造の南側に池が広がる見事な庭園の、水面に張り出した釣殿に赴いた。  師実の頃は荒れ果てていたが、久しぶりに訪れた屋敷は手入れが行き届き、道実の権勢ぶりを容易に伺わせた。娘を地方の大名に嫁がせなくては体面一つ保てぬという昨今の貴族の有様からは、随分とかけ離れていた。  釣殿の障子窓を見上げる場所、池のほとりに膝をつき、葛は頰被りを取って控えていた。今日は一体何刻待たされるか、そう考えたのも束の間、眼前の障子窓が開かれた。 「遅かったの。待ちかねたぞ」  障子の桟に寄りかかる様にして、貴族然とした男が扇で口元を押さえながら座っていた。 「これは道実様」 「水臭い。そもじは従弟ではないか。兄と呼ぶが良い」 「滅相もございませぬ。しかしながら道実様のご厚情を以ちまして、里の者達は穏やかな日々を過ごしております」  ふん、と鼻を鳴らし、道実は扇の影から葛を見下ろした。 「御殿忍はやはり籠の中しか知らぬ故、役には立たなんだ。市蔵は浅ましい男であったが、そもじは我が血筋。血は水より濃いと申す故、もう一度働いてもらおうと思うたのじゃ」 「お陰様で多くの大名家の忍働きを勤め、里も潤いましてございます」  少しだけ微笑む葛の、変装の為に泥で汚した顔をしげしげと道実が見つめた。 「汚い形をしていても、やはり美貌は隠せぬのう。女でもまだ通じるか」 「そのような訓練は致しております」 「ならばのう、奥川へ参れ。添状は用意致した」 「三河の、奥川家でございますか……もしや、澪丸様の」  喜色を浮かべる葛に、道実は然程興味を示す風でもなく続けた。 「そうじゃ、奥川には二年ほど前から澪丸が人質として暮らしておる。奥川の背後には稲川がおるが、稲川頼将の室は四津寺家の出じゃ。駿河に小京都などと申す都を作り、調子付いておる。四津寺家はここのところ懐も潤い、官位を買いそうな勢いじゃ」 「恐れながら、四津寺家では五摂家である御当家と並ぶことは叶いますまい」 「三条橋の我は、右大臣とは申せ若輩。朝堂(ちょうどう)での発言権は未だ低い。が、何が起こるかわからぬのが今の朝廷じゃ。何せ皆金がない、金が欲しい。公家などと金看板ばかりが重うて腹は空いたままじゃ。四津寺は稲川の資金を背景に、猟官に明け暮れておる。このままでは娘婿の頼将の為に駿河守護どころか将軍職まで買いかねぬぞ」 「まさか」 「そして四津寺の後ろには、九条や坊門までついておる。金の匂いには鼻の利く奴らじゃ。 織田島は間も無く美濃も尾張も平定しようが、甲斐の高田と駿河の稲川が立ち塞がる限り小物大名に過ぎぬ」 「それと奥川家がどう……奥川を駿河から切り離し、稲川頼将に織田島宗近をぶつけよとお考えにございますか」  ふふふっと金属的で耳障りな含み笑いを返し、道実は障子窓を閉めた。 「澪丸は手駒としては未知数じゃ。お前なら、この三条橋に富をもたらす打ち出の小槌に、あれを育て上げてくれようのう」 「お待ちくださいませ、私にはそのような……」  食い下がる葛の言葉に返事はなく、衣摺れの音と共に道実の気配は消えた。  相変わらず勝手なことをと、葛は溜息と共に立ち上がった。改めて庭を見渡しても、そこにかつて母がいたであろう温もりはどこにもない。桜の木までもが、手入れが行き届きすぎて作り物のようであり、今にも咲き乱れそうに桜色に膨らむ蕾を見ても、心が踊ることはなかった。  だが、道実は芙由子の兄であり、澪丸の伯父である。情などなくとも、澪丸が一国の主となった時に必ずその血筋が物を言う。その時、澪丸は父・宗近を超えるのだ。  ぎりぎりと、葛は道実に手渡された添状を握りしめた。  奥川家に入った頃から澪丸に張り付かせている下忍からの知らせで、澪丸が岡崎城を抜け出し領内の山中に入ったことはわかっていた。  己の身体の驚愕すべき真実を突き付けられた時、何人たりとも気を許せぬ他家の水の中で、どれほど苦しんだであろうか、もっと早くに戻るべきであった……と、美しい顔を苦悩に歪ませ、杣人も追いつけぬ程の足運びで、葛は隠し砦へと急いでいた。  『澪丸は月を抱く子ゆえ……』  幼い澪丸の身の回り全ての世話を請け負ってきたのだ、芙由子のあの言葉の意味を理解する事に時間はかからなかった。  だが、葛とて、女ではない。それをどう捉え、折り合いをつけたら良いものか……なじられるか、拒絶されるか、はたまた手打ちにでもされるか。答えを持たぬまま澪丸の元に戻ったとて、何ができるのか、かける言葉はあるのか……逡巡するばかりであった。  近江山中の隠し(とりで)で馬を出し、葛は岡崎城下を目指すべく迷いつつも鞭を入れたのが、4年ぶりとなる不機嫌な再会の、三日前の出来事であった。     
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