葛と市蔵と

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「遠乗りは如何であった。まだ桜は咲いてはおらなんだであろう」 「はい。しかしながら御領内の地形を知るには良い折にございました」 「勉強熱心じゃの。良いお子を持たれて、実に織田島殿が羨ましい」  1576年、春。岡崎城主・奥川将康(おくがわまさやす)は、34になったばかりではあるがその居住まいには城主としての威厳があった。小柄で、人好きのする丸顔ではあるが、目尻の垂れた優しげな目の奥は常に油断のない鋭さを含んでいた。 「しかしながら、国境はだいぶ賑やかになってきておる。如何に影伴がついておろうと、単身では最早動くまいぞ」 「はい。お言葉しかと」 「ま、気持ちはようわかる。儂とて、子供の頃に織田島家と稲川家にそれぞれ人質として預けられておったからな」 「聞き及んでございます」 「針の(むしろ)とは、よう言うたものじゃ……ん、そう来るか」  その双眸で碁盤を睨まれると、つい何か仕損じたかと身の震える思いがしながら、今日も澪丸(みおまる)改メ(あらため)織田島宗冬(おだじまむねふゆ)は将康と囲碁に興じていた。  宗冬の一手をしげしげと眺め、将康はつるりと額を撫で上げた。 「これは厳しい手だの、宗冬」 「昨日、御家老の柏原(かしわばら)様と殿の勝負を拝見しながら思い立ち、只今試してみましたが」 「これはしたり、儂の負けじゃ」  将康には、宗冬と変わらぬ年の息子がいるが、こうして碁の相手を務める事はない。生母が稲川頼将(いながわよりまさ)の異母妹・安佐(あさ)であるため、何かと駿河で過ごすことが多いのだという。  この本丸館の寝所からは庭の桜の古木を見ることができる。この城に来てから初めて見る満開の桜だが、あの桜を愛する葛は滝で再会して以来数日を経ても、まだ姿を見せない。 「遠江の国衆、喜井(きい)一族が我が方についたことで、稲川頼将めが国境に押し出してきておる。大きな戦には成り得まいが、喜井一族のこれまでの忍従に応えてやりたい。どうじゃ、行ってみるか」  戦に出てみるか、そう案に告げる将康に、宗冬は喜色も露わに頷き、頭を垂れた。 「北美濃を抑える織田島殿に助勢せねばならぬ、兵は千が良いところじゃぞ」 「稲川は相模との小競り合いも抱え、それほど大軍を差し向けてくるとは思えませぬ。喜井一族と合わせて二千にもなれば上々吉にございます」  将康は膝を打った。 「決まりじゃ。支度が整い次第出立せい」 「人質の我が身に兵をお預けくださること、誠に有り難く存じます」  声を詰まらせて謝意を述べる宗冬に、将康は深く頷いた。  私室に戻り、宗冬は自ら鎧を広げ、装束の支度に取り掛かった。  まだ真新しい桜威(さくらおどし)鎧兜(よろいかぶと)は、三条橋道実が奥川家入りする際に餞として送ってよこしたものであった。だが、酷薄(こくはく)な公家の当主がこのような気遣いをするはずもない。父が用意する事はまず考えられぬとしたら、思い当たるのは一人しかいないのだが、これを持参した碤三は頑としてその名を口にしようとはしなかった。  一度、奥川家の重臣たちの支度を手伝っただけで、誰から教わったわけでもない。記憶を頼りに支度を始めるが、やはり手際良くとはいかない。結い上げた元結を切るだけでも一苦労であった。  部屋中にばらばらに散らばるそれらを見つめ、宗冬は泣きたい思いで力なく座り込んでしまった。こんなことでは折角の機会を逸してしまう。 「さ、お立ちください。私にお任せを」  まさか、そんな事はあるはずないと、苦笑しながら庭に面した襖を振り返ると、そこに京風の艶やかな小袖に身を包んだ葛が、手をついて座していた。  途端に、それまで灰色でしかなかった部屋が色彩に溢れ、花の香りに包まれた。 「葛……」 「道実様からの添状がございます。表向きは守役・藤森市蔵としてお仕えいたしますが、奥向では市蔵の妹としてお身の回りのお世話を。拒まれても、私はここで働かなくてはなりませぬ故、お気を安く何なりとお命じくださりませ」  言葉は嫌味で意地悪ですらあるのだが、その甘やかに響く男声を聞き、宗冬は耐えきれずに泣いた。 「泣いている暇などございませぬぞ」 「……あのような事を申した故、もう来ぬと思うておった」 「あのくらいでいちいち滅入るほど、柔な私だとでも」  そう言いながらも手際よく宗冬に帷子を着せていき、瞬く間に見事な若武者を仕上げていった。 「湯漬けは召し上がりますか」  かなりの力仕事を終え、少し息を上げながらそう聞く葛に、宗冬は首を振った。 「そこに、座ってくれ」  畳床几に腰を下ろした宗冬は、自分のすぐ目の前を指して葛を促した。 「何でございましょう。私とて、支度がございます」  今だに口を尖らせるような言い方をする葛に、宗冬は静かに頭を下げた。 「すまぬ。許してくれ、この通りだ」 「何のことでございましょう。武将ともあろう方が腰元に頭を下げるなど」 「頼む、もうそのくらいにしてくれ。あの白糸の滝で、私は……本当はお前に会いたかった、ずっと会いたかったのだ。それなのに、あんな酷い事を言った。許せ」  そう切実に謝る宗冬の姿に、横を向いていた葛の口元が微かに崩れた。 「いえ、一瞬でもあなた様から離れてしまった私が悪いのです」  両目からポロポロと涙をこぼす宗冬を、葛は堪らずに抱きしめた。 「お辛うございましたね。ようここまで頑張って参られました。あとはお心安く、葛にお任せくだされ。もう二度と離れはいたしませぬ」 「うん、うん」 「13におなりでも、まだまだお子様でございますな」 「今は、良いのだ」 「左様でございますね」  クスッと笑い、宗冬が腕の中から上目遣いに葛を見上げた。何かを強請る時や言いにくいことを口にする時に見せる、殺傷力抜群の愛らしい表情である。その顔を見ると、憤りも迷いも何もかもどうでも良いくらいに蕩けてしまうのであった。 「本当は怒っておったろ」 「え、ええ、まぁ、それはちょっと……」 「やはりな。あれから何日も経っておるのに中々来ない故」 「私の方こそ、あなた様の大切なものを奪ってしまって……我ながら自制の効かぬことと、合わせる顔がなく……」  あ……と、宗冬が指先で自分の唇をなぞり、頰を赤らめた。 「葛はやはり……男、なのだな」 「ええ、まぁ」 「あんな風にされたら、女子はきっと誰でも、舞い上がってしまうのだろうな」 「若、どなたか、意中の女子でも」  探るように見据える葛に、宗冬は顔を赤らめて激しく首を振った。   この様子ではまだ誰とも契りを交わしていないのであろうと、子供のままの宗冬に少し安堵しつつ、葛は再び強く宗冬を抱きしめた。とはいえ、掌で包んだ宗冬の肩にはしっかりと筋肉がつき、若者らしい体格になりつつあった。 「碤三に叱られたよ。葛は多治見での戦で大怪我を負い、1年以上まともに動けなかったと。私の元に戻る為に、更に2年余り死ぬ思いで修行を重ねたと。自分のことばかり申して、本当に恥ずかしい。本当はね、久しぶりに会えた時、こうしてぎゅっと抱きしめて欲しかったのだ」 そういえば、会うなり叱ってしまったのだったと思い出し、葛は詫びながら宗冬の頰に自分の頰を寄せた。本当は、こうしたかったのだ、こうしたかったのは自分の方なのだと。 「よう、ここまでご辛抱なされました。ご立派です、ご立派でございます」  この体温は自分にとって何事にも代えがたいものだと、葛は改めて思い知ったのだった。
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