4.喜井谷の獅子

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4.喜井谷の獅子

 駿河と遠江の国境にほど近い山間に、喜井一族の領地があった。稲作には適さぬ土地ながら、君臣がよくまとまり、木材の加工・輸送、また染物などの工芸品などを港に収める事で利を上げていた。しかし常に稲川家の威光に振り回され、奥川家との間で際どい外交を続けて生き延びてきた。結果、稲川からの度重なる出陣要請に従っては前線に送り込まれ、一族に残されているのは女・子供、そして年寄ばかり。先だっての相模国への参陣でも見殺しにされるかのように当主・喜井直武(なおたけ)を始めとする一門を失い、跡を継いだ直獅郎(なおしろう)はとうとう稲川からの離反を決意したのであった。  岡崎城とは比ぶべくもない喜井家の城に入り、宗冬は広間で直獅郎(なおしろう)と対面を果たした。 「粗末な城で驚かれた事でございましょう」  柔らかな物腰で上座に座しているのは、どう見ても若き女性である。とはいえ、男物の直垂に身を包み、男のように胡座をかいて座っている。宗冬のすぐ後ろに控えている葛の方が、如何に黒装束の戦仕度とはいえ、余程所作も女らしい。  ただ、領内を案内されて驚いたことに、怪我人以外でまともに動ける男子が本当に見当たらない。槍衾やら鏃やら、戦支度をするのは女子供ばかりで、鎧らしきものを身につけて見回っているのは年寄りばかりである。  将康の命で従ってきた重臣・石川一貴(かずたか)は、呆れ顔で庭先に目を向けた。老兵が掛け声も勇ましく、槍の稽古をしていたのである。 「あれでは、のう」  これは味方に損害が出るは必定(ひつじょう)と、館に入る前に何度も耳打ちされた言葉であった。だが宗冬は意に介さず、直獅郎が広げた領内の絵図に見入っていた。 「麓のお寺には、僧兵が千人ほどおりますな。彼らを先鋒にするおつもりでございましょうが、折角の地の利、ギリギリまで奥深くに敵を攻め込ませ、このすり鉢状の丘で一気に叩きましょう。お持ちの鉄砲で」 「ほう、見抜いておられましたか」 「硝石の製法に通じておられる一族と承っております。稲川の狙いも元々はそこでございましょう」 「さて」 「交易でもなくば手に入らぬ硝石、どの大名も喉から手が出るほど欲しい筈。その硝石を、変わった製法で生み出せるとか」 「製法を所望ですか。援軍と引き換えに」  直獅郎の表情から笑みが消え、凄みすら感じる切れ長の目が背後を伺った。襖の向こうにはっきりと殺気が漲っている。返答によっては、襖を蹴破って躍り出てくる家来達に串刺しにさせるのであろう。宗冬の後ろに控える葛が、その殺気に反応して毛を逆立てる猫のように攻撃の態勢を取っている。あくまで静かな佇まいの下で。 「その事は今の状況に何ら関わりはございませぬ。それより、寺の僧兵は京から逃れてきた流れ者のようですが、訓練の程は」  さらりとかわした宗冬の返答に、直獅郎はまだ警戒を解く様子はない。真意を確かめるが如く、宗冬の表情から目を離さずにいる。 「元は、比叡山の強訴で鳴らした者達です。戦には慣れておる。和尚は私の叔父であり、皆、叔父を慕って付き従っている者達ばかり。士気も高い」 「それは良い。面白い戦いになりそうです」  宗冬がそう笑うと、直獅郎は整った顔を漸く綻ばせた。 「愉快じゃ。奥川殿がなぜ、年若い上に人質のあなたを寄越したか、得心がいきました。頭の固い古狸の如き武将では話にもならなかったでしょう」 「若輩者です。お指図を」  戦意を滾らせた表情で、二人は頷き合ったのだった。
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