稲川照素 

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       稲川照素 

 長い隊列がのろのろと街道を歩く様を、宗冬と葛は丘の上の大木の陰に身を屈めて見つめていた。 「小鼠をいたぶる虎のようじゃな」 「あの旗印は国境の国衆にございます。元はといえば喜井とも盟友関係。分断させて追い込むとは、意地汚うございますな」 「ところが、その小鼠は「獅子」ときている」 「直獅郎様にございますか。元はお名を獅尾(しお)姫様と申されるそうにございます」 「どちらにしても、獅子じゃな、あのお方は」 「ええ、並の男より男らしい」 「並の女より女らしい葛が褒めるとはな」 「まぁ、存じませぬ」  さして照れる風でもなく軽口を叩き、葛は筒眼鏡を宗冬に手渡した。 「今は藤森市蔵にござります、お間違いなく」 「おお、そうであったの。男の姿でも葛は実に美しい。葛のような男になりたい」 「紅を差すような男なんて、お勧めしませんよ……若、戯言はその辺りで」  街道に、一際派手に飾り立てた馬に乗った武将が現れた。これ見よがしに従者を従え、仰々しく胸を反らせて馬上から辺りを睥睨している。 「御大将のご登場ですな。稲川照素(てるもと)殿とか」 「稲川頼将の嫡男か」 「いえ、長男ではありますが妾腹の子。嫡子は四男の頼素(よりもと)と申す20歳にもならぬ青二才とか。あの照素は子供の頃から頼将の戦に付き従っております故、油断はなりませぬ」  そう解説をしつつ、葛は腰の刀を背に背負い、組み紐でしっかりと結びつけた。 「頼将の正室は四津寺(よつじ)家の出。その息子頼素は、三条橋家には及ばぬまでも歴とした公家の血筋故、阿呆といえども嫡子に据えられておるのだそうで」 「阿呆阿呆と、何やら私が言われているような気がするぞ」 「ならば、しっかりお働きなされませ」  それだけ言い捨て、葛は算段の通りに街道へ向けて崖を下っていった。  葛の後を、木々の合間を縫うように軽装備の徒の一団が追いかけていった。葛率いる藤森衆と、喜井一族の僧兵の一部である。身の軽い者達で形成された一団は、あっと言う間に街道手前まで駆け下り、宗冬の合図を待つべく身を伏せた。 「かかれ」  宗冬が采配を振るうと、予め積まれてあった巨岩や丸太を抑えていた綱が一斉に断ち切られ、ガラガラと地響きを立てて街道めがけて崩れ落ちていった。  細長い隊列で進んでいた稲川軍は瞬く間に寸断され、足軽隊などは直ぐに散り散りになって混乱の様相を見せたが、流石に騎馬隊は隊列を維持するべく檄が飛んでいた。 「伏兵じゃ! 」  しかし孤立した騎馬隊に横腹から葛達伏兵が飛びかかり、次々と馬上の武将を蹴り飛ばして馬を奪い、散々に徒部隊を荒らし回った。馬に踏み潰された死体から弾け飛ぶ血潮で、街道は瞬に朱に染まった。  やがて馬を奪った一団は喜井谷へと逃げ込む。無勢と見て立て直した本隊が、我先にとその一団を追いかけて喜井谷へと入り込んできた。  宗冬は奥川の手勢と喜井谷の畑地へと移動した。喜井家菩提寺でもある光宗寺の寺領を脇目になだらかな坂道を二里ほど進むと、そこから畑地、丘陵地へと道が急峻になっていく。畑地へと回れば幾分なだらかであり、その先に谷の衆が暮らしを営む里が拓けている。  葛率いる一団は真っ直ぐに窪地を目指した。途中畑地へ折れる分かれ道の入り口は木々で隠した。里人の手による稚拙な策ではあるが、葛達を血眼で追いかける稲川軍は気付く様子もなくまっしぐらに窪地への急峻な坂道を掛けていった。  しかし照素を大将とする本隊は流石に慎重に、まずは光宗寺(こうそうじ)の攻略に取り掛かっていた。留守部隊である僧兵と矢の応酬を繰り広げ、粗方尽きたと見るや、雪崩を打って光宗寺の境内に雪崩れ込んだ。  しかし既に寺は(もぬけ)(から)で、次の瞬間、本堂、食堂、各所に積まれた藁めがけて火矢が放たれた。折からの乾燥で瞬く間に火は広がり、逃げようにも山門を外側から閉じられてしまい、寺に入り込んだ稲川兵は殆どが火に焼かれたか煙に巻かれたかして絶命した。  手薄になった本隊に、宗冬が奥川の手勢と共に突っ込んだ。この時若干二十七歳と若い大将・稲川照素は、流石に馬上で反りのある薙刀を振り回して応戦するものの、既に兵力の殆どを分散してしまった後だけに後詰となる兵がおらず、じりじりと追い詰められていった。 「織田島宗近が嫡男・宗冬、参る」 「ほう、貴様が宗冬か……ふん、人質風情が」  止める石川の手を振り払い、宗冬は刀を抜いて照素と対峙した。 「人質と女子供に討ち取られるのです、さぞ悔しかろう」 「何と」  ぎりぎりと歯を食いしばる照素に向け、宗冬が愛馬・蒼風の腹を蹴った。前足立ちに嘶くと、馬は宗冬を乗せて照素へと突進した。照素が跨る黒毛馬は、豪奢な鞍に俊敏な反応を阻まれたか、ただ足を踏み鳴らすだけで走り出す素振りも見せなかった。 「お覚悟! 」  頰を掠める薙刀の刃先に構わず、照素の喉笛だけを見据えて宗冬は刀を突き出した。  一撃目はただ首の皮一枚断ったに過ぎなかった。だが、切っ先にはべっとりと血脂が付いている。一旦間合いを取って馬を止め、馬首を巡らせつつ太腿で血脂を拭った。 「小童めが」  鮮血を滾らせながら、照素が薙刀を捨て、刀を抜いた。身の軽い宗冬に大振りの一撃を躱されて懐に入られることよりも、確実に組み合って打ち取る算段をしたのである。体格なら宗冬に利はない。  だが、照素の馬は最早戦う意思を失っている。火に怯え、主人の手綱捌きへの反応が遅い。宗冬の蒼風などはまだ鼻息を鳴らして突進する気概を見せている。  しっかりと、刀を握り直し、宗冬は掛け声と共に愛馬を急き立てた。  組み敷こうと身を乗り出してくる照素のその左脇の下に刀を突き立て、宗冬は体を屈めてすり抜けた。馬上で柔らかくしなる宗冬の体を掴めずに、照素の体は馬上から放り出されるようにして地面に叩きつけられた。主人を失った馬はただおろおろとその場を回り続けるばかりである。 「首級、頂戴つかまつる」  左脇に刀を突き立てたまま、照素は覆いかぶさってくる石川一貴を睨みつけた。  宗冬が馬首を巡らせている間に、石川は手際よく首を斬った。 「石川殿」 「これはあなた様のお手柄にござる。ただ、無為に苦しませることなく早々に引導を渡すのもまた、武士の作法にござる」  愛馬の背から滑り落ち、宗冬は首を失った照素の遺体のそばに膝を折った。 「光宗寺の僧に、(ねんご)ろに(とむろ)うてもらうが良い」  そして、物言わぬ遺体に、静かに手を合わせたのであった。  窪地に誘い込まれた稲川軍は、ぐるりと囲む崖の上から喜井一族による一斉射撃によって殲滅し、残党も光宗寺の僧兵や藤森衆の働きで程なく潰えた。  鉄砲衆を自ら指揮していた喜井直獅郎は、すぐさま遺体を荼毘に付して懇ろに弔うよう指示をし、馬に跨った。葛が慌てて駆け寄り、その轡を取った。 「直獅郎様、どちらへ」 「里の様子が気になる。照素の首級(みしるし)は、そちらで良きようになされよ」  それだけ言うと、直獅郎は馬を急かせて畑地へと消えていってしまった。
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