稲川頼将

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       稲川頼将

 駿府城本丸、大広間。かつて宗冬が人質として暮らしたどんな城よりも荘厳華麗で、贅の限りを尽くしたかのような意匠がそこかしこに施されていた。  まだ無人の上段の間に向かい、直垂に身を包んだ宗冬はじっと瞑目していた。少し上座には宣将が座しているが、宗冬に向けられたままの背は全く鎮まる様子はなく、ずっと小刻みに震えていた。 「おう、参ったか、宣将」  すると、上段から若々しい声がかかった。親し気に名を呼ばれ、宣将は思わず顔を上げて両足を床の上に投げ出した。こんなところに当主・頼将が来たらどうするつもりだと派手な柄の(たもと)を掴もうと手を伸ばした時、頼将の着座が告げられた。  宗冬は背後に付き従う石川に目顔で合図をし、照素の首級(みしるし)が収められた葛桶を膝元に運ばせ、照素の御霊(みたま)に合掌をした。やがて上段の間に太刀持ちの小姓が現れると、再び平伏の姿勢を取った。  「織田島宗冬と申したか。面を上げよ」  忙しく上座についた頼将に促されるまま、宗冬は顔を上げた。  決して美男という面相ではないが、少なくとも父・宗近のように人を寄せ付けぬ酷薄さはない。太くよく響く声にも、宗冬に磊落に見せる表情にも、騙し討ちをしようなどという姑息さもない。いや、そのように見せて油断させるのも手の内かも知れぬが、少なくとも今は、宗冬に敵愾心(てきがいしん)を向けていない。 「よう、息子を連れ帰ってくれた」 「戦国の習いにございます、御寛恕(かんじょ)くださりませ」  頼将は頷くと、近習達を促して照素の首を下げさせた。 「父上、こやつは兄を斬った者、この場にて……」  先ほど宣将に親しげに声をかけた若武者が、立ち上がるなりスラリと刀を抜いた。 「奥川に囚われの人質風情が、ようも武芸で馴らした兄を討てたものよ。大方その女の如き容姿で油断を誘いおったのであろう、卑怯者め」  床を踏み鳴らしながら上段から下りてきた若侍が、切っ先を宗冬の顎下(あごした)に差し込み、ゆっくりと顔を上げさせた。その少女のよう可憐な顔立ちに似合わぬ落ち着き払った漆黒の瞳を見た途端、若侍の切っ先が鈍り、刀がふと下がった。 「おまえは……」  宗冬は咄嗟に横飛びに刃の下をかいくぐり、両手でその刀の刃を挟むようにして巻き取った。ほんの一瞬の出来事に、大広間が時が止まったのように静まり返った。  呆然と突っ立ったままの若侍から数歩下がり、宗冬は巻き取った刀を自分の右側に置いて膝を折った。 「ご無礼を。ただ、照素様との一騎打ちに卑怯未練(ひきょうみれん)な振る舞いなど金輪際(こんりんざい)無かったことを今一度申し上げとうござります。言わば、馬の違い……我が愛馬が優っていただけのことにございます」 「頼素、この父にこれ以上恥をかかせるでない」  頼将に名を呼ばれ、頼素はその場に力なく座した。 「許せ、宗冬殿。こやつは儂が四男、小四郎頼素(こしろうよりもと)じゃ。十八にもなってこのザマでのう。嫡子としての器量がまだ備わっておらぬ」  頼素の視線があらぬ方を向いているのを良い事に、宗冬は大きな目だけを動かして頼素の姿を観察した。  間違いなく、奥川領のあの滝で出会った公達である。  だが、頼素の方はまだ確信を得るに足りぬ様子であった。 「恐れながら、此の期に及んでの喜井家への介入、干渉はご無用に願いたい。横車(よこぐるま)を通されるならば、次は別のお子の首が飛ぶ事になりかねませぬ。と、喜井家当主・直獅郎様から言付かっております」 「虫の良い話だな。全力でかかれば喜井谷など一捻(ひとひね)りじゃと申すに」 「それは如何なものでしょう。今、喜井を手に掛けて三河の奥川や尾張の織田島を敵に回せば、上洛は難しくなりますよ」 「何じゃと、何故それを……そうか、そうであったな」  人の良さそうに垂れた瞼の下から、獲物を捕食する猛禽(もうきん)類のように頼素が見据えた。思わず体が竦むのを必死でこらえ、宗冬は自ずから膝を前へ進める勢いで続けた。 「喜井を侮られてはなりませぬ。堺の町名主も南蛮商人共も、今や喜井谷の鑑札なくばチリ一つ動かそうとはいたしませぬ。故に、奥川殿も織田島の父も、喜井の立場を慮っているのです。直獅郎様は、決して稲川に弓引くような事はなさいませぬ。どうか、ご放念くださいませ」  直獅郎や藤森衆がもたらしてくれた情報はこれが全てではない。だが、頼将はそれも分かった上で損得を考えている……宗冬も頼将の思考を探りつつ決して目を逸らさなかった。 「相わかった」  長い静寂の後に放たれた頼将の野太い返事に、宗冬は思わず息を大きく吐き出した。 「何じゃ、斬られると思うたか」 「ええ、まあ」  宗冬の飾らぬ答えに、頼将は豪快に笑った。 「斬れる筈がない。そなたは三条橋の血筋。右大臣様におかれましては、今度の儂の守護職就任にご尽力下されたと、妻の里である四津寺家から聞き及んでおる」  故にここに葛が従っておらぬのだと得心がいった。今や道実に連なる血筋で次代を担える者は、この宗冬しかいない。三条橋と織田島の血を引く唯一の男子である自分を斬っては、この名誉欲の塊のような頼将の願いは叶わない。 「奥川殿が申しておった、そなたのような息子がおればと。儂も同感じゃ。この頼素では、折角駿河遠江守護の地位を保証されたとて、二束三文で買い叩かれそうじゃて」  返事の仕様に困ることを平然と口にし、固まる頼素をそのままに頼将はさっさと辞去していった。  
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