白糸の精

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       白糸の精

 背後の家臣団に弛緩の溜息が洩れて、居住まいが(いささ)か緩くなったことを見計らうように、宗冬は刀を頼素の目の前に置いた。 「どなたかと、見間違われましたか」  差し出した刀を持つ手に、頼素が恐る恐る触れようとするが、宗冬はそれを許さずにスッと手を引いてしまった。 「そなた、奥川の領内で……いや、白糸の滝に行かれたことはおありか」 「白糸の滝ですか。というより、お一人で他家の領内にお入りになるとは、大胆な」 「いや、その……知り合いから聞いた話だ……覚えがないなら良い」 「然様にございますか。ならばこれにて、御免」  立ち上がって背を向けた宗冬の手を、頼素は今一度しっかりと掴んで引き寄せた。  肩越しに振り向く宗冬の横顔が、あの時の白糸の精と重なった。 「やはり……」  すると、それを兄の遺恨を晴らす為と受け取った奥側の家臣団が一斉に立ち上がり、宗冬を背に守るようにして立ち塞がり、一斉に腰を落として小刀に手を掛けた。 「御兄上の敵討ちならば、今ここで承っても宜しゅうござる。三河者は例え小刀しか身に帯びずとも、最後まで戦いますぞ」  石川一貴が既に小刀の鯉口(こいくち)を切って腰を沈めて構えていた。  動く要もないとばかりに立ち尽くしていた宗冬が、僅かに口元を解して一貴に頷いてみせた。 「その要はない。頼素殿にその度胸はなかろう」  宗冬が振り解くと、案外簡単に頼素は手を離した。よく見れば中々の美丈夫だが、いかんせん武士にしては表情が出すぎる。これでもっと胆力があったなら、一廉の武将にもなろうというに……相手にするまでもないという風に、宗冬は頼素に背を向けて去った。  驚く事に、駿府の城門の前にはズラリと鉄砲隊が並んでいた。思わず足を止めた宗冬であったが、指揮官の顔を見るなり走り出した。 「か……市蔵! 」  思わず葛と叫びそうになるのを堪え、宗冬は一目散に葛の元へ走り寄った。膝をついて出迎えた葛は、鎧直垂(よろいひたたれ)に胴と面頬(めんぼお)をつけた姿であり、烏帽子(えぼし)から垂れる黒髪が陽光を浴びて艶やかに揺れている。面頬で顔を隠していても、この姉は誰よりも美しいと呟き、宗冬はその胸に飛び込みたい衝動を必死に抑え、葛の手をとって立ち上がらせた。 「待たせたの」 「何のことはございませぬ。直獅郎様から借り受けた鉄砲隊、無用に終わり何よりと存じます」 「こんな門前で鉄砲隊と共に控えるとは、大胆にも程があろう」 「私供はただの供揃えに過ぎませぬ。故にこのような宮芝居のような装束を」 「そなたは何を着ても映えるのう」  形ばかりの供揃えとして控えながら、いざとなれば弾込めをして撃ち放つつもりであったことは容易に知れる。鉄砲隊の面々はいずれも、喜井谷でも選りすぐりの連中である。 「帰りましょう」 「そうじゃな」  面食らって言葉を失ったままの奥川の家臣団は、跳ねるように歩き出す宗冬主従を慌てて追いかけたのであった。  岡崎に戻った宗冬は、奥川将康からの一層の信頼を得るに至った。葛は藤森衆の中でも鉄砲の扱いに慣れたものを数名喜井谷に残し、直獅郎の身辺警護も兼ね、堺からもたらされるであろう新式の銃について学ばせる事にした。  宗冬の仲立ちで、将康はやがて直獅郎と共に堺の商人達と懇意になっていく。かつて渥美半島を治めていた田原(たはら)氏の居城・田原(たはら)城を改築し、伊良湖付近には海沿いに大型船が入港できる港を整備した。そこで荷分けされて小型の荷駄船にて波瀬(はぜ)の陣屋で仕分けされ、田原に至る。かつて田原氏は「玉虫色」との誹りを受けて織田島、稲川を行き来しては奥川と小競り合いを繰り返していたが将康によって一旦は滅ぼされた。しかし海を知る一族であるが故に、将康は縁者を新たに支配下として陣屋に置き、渥美の代官として港の管理一切を任せていた。  尾張の織田島宗近が美濃攻略に手こずっている間にも、将康は水面下で着々と三河や尾張の水軍を手懐け、海の軍備を整えていたのであった。  
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