6.道行

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6.道行

 殆ど記憶にない清洲の城であるが、母と暮らした別曲輪は取り壊されて武具庫となっていた。かつて宗冬の元服を宗近に訴えてくれたただ一人の老臣・平手賢秀(かたひで)はもう鬼籍に入り、息子である三郎賢厳(さぶろうかたよし)が城代として城を守っていた。 「奥川将康様、宗冬様におかれましては御健勝の由、誠にもって恐悦至極。この通り無粋な差配で何もございませぬが、岐阜城への出立まで暫し、おくつろぎくださいませ」  将康より少し若いくらいではあろうが、賢厳(かたよし)はそう無表情に告げ、余計な会話は無用とばかりにすぐに辞去した。  花も活けておらぬ奥座敷の一間。将康と宗冬は、夏物の麻の小袖に裁着袴という軽装で座していた。開け放たれた障子の向こうには、枯れ木が並んでいる。 「桜の古木があった筈でしたが」  粗末な茶碗に注がれた白湯に見向きもせず、宗冬は夕陽の当たる中庭に降り立った。  全てが、色を失い、枯れているように見えた。人が暮らしていて、このように息吹もなく、全てが褪せてしまうものであろうか。 「確か平手殿は宗近殿の不興(ふきょう)を買ったと聞いておるが、それならば城代など任されはせぬ」 「はい……何某かの策があるとしても、殿の御身は命に変えてお護り申し上げます」  1578年晩夏。15才となった宗冬は、一層体つきも青年らしくなり、細身とはいえ上背は既に葛を越えようとしていた。顔立ちだけがまだ少女のような可憐さを残したままであるが、声はもう落ち着いた低音で、奥付きの女中達などは、声を掛けられるたびに卒倒するほどの甘い響きだなどと称している。  未だに駿河から帰ってこない宣将の姿を最早忘れそうになっている将康は、美将に育っている宗冬をまるで自慢するかの如く方々に連れ回していた。  しかしながら今度の美濃行きは、決して楽しい旅ではない。兼ねてより宗近から宣将への縁組を持ちかけられていたが、例の如く安佐が宗近嫌いで猛反発をし、勝手に高田家との縁組を画策していたことが当の宗近に露見したのである。元々将康は子供の頃に織田島家に人質として出されていた折、宗近を兄と呼ぶ程に心を通わせたことがある。あの冷徹な宗近も、怜悧だが人好きのする将康を弟と呼んで大層可愛がったのであった。  それだけに、怒らせた時の恐怖も、将康は骨身に沁みて知っていた。 「まさか、ここで我らを殺しはしまいが……」 「父は将康様の御器量をよう承知です。将康様の申し開きに必ずや耳を傾けましょう」 「いや、脅すだけ脅して、煮え切らぬ我に決断を迫るおつもりであろう」 「我が父ながら、申し訳もございませぬ」  頭を下げる宗冬に、将康は手を振って笑った。 「よせよせ。父などと呼ぶほどの交流もない宗近殿に、そうまでして義理立てすることもなかろう」 「将康様」  と、夥しい足音と共に将康の兵があっと言う間に二人を取り囲んだ。しかし、その槍先は宗冬にだけ向けられていた。 「一体これは」 「宗冬よ。儂は衷心からおまえを(せがれ)に欲しいと思うておる。だが、あんな女でも妻は妻、あんな阿呆でも倅は倅。宗近殿にむざむざと殺されて黙っておるわけにもいかぬ」 「殿、織田島の兵が岐阜城を発った由にございます」  兵をかき分けて、具足(ぐそく)姿の石川一貴が将康の前に膝をついた。 「いよいよ来るか。この清洲はのう、もう随分と人の手が入っておらなんだ。それを休憩所にと用意されたでな、これはもう、我の命を取るつもりだと腹を括った。妻子の首が間に合わねば、ここで果てることとなろう。そして宗近殿はそのまま稲川を攻める」 「稲川をですか」 「そういうお方だ。しかしながら、お前を殺さぬまでも宗近殿にお返しして織田島に力を与えるなど口惜しゅうてならぬ」  一貴は刀を抜くなり、宗冬の(まげ)を断った。板の間に、黒々とした長い髪が髻ごと落ちた。 「ご無礼を」 「こ、これはいかなる事にござりますか」  何のことかまるでわからず、下げ髪のまま突っ立っている宗冬の両肩を、どこから現れたか葛がしっかり抱きとめていた。その姿は忍装束に胴丸ながら、覆面を顎まで下ろしてその美貌を晒していた。 「やはりのう、市蔵はおぬしの二役であったか、行け」 「御免」  宗冬を促し、その手を引いて葛は駆け出した。 平城である清洲城の本丸は、五条川と内堀とで守られている。将康がじっと動かず平手勢を引きつけている間に、葛は宗冬と石垣を乗り越え、五条川に降り立った。 「遅い」  そこには三頭の馬の手綱を引いた碤三が待っていた。秋の予兆か、既に薄闇に包まれようとしていた河原の風は冷たい。 「蒼風、蒼風よ」  愛馬・蒼風に駆け寄るなりその首に顔を寄せる宗冬の肩に、葛はすかさず馬の背に括られていた黒布を被せた。童のようになってしまった宗冬の姿に、碤三が笑った。 「ひどい頭になりやがったな」  耳の下でバサバサと風にそよぐ髪を触り、宗冬が首を傾げた。 「なぜ、将康様はこのようなことを」  疑問を口にする宗冬を促して蒼風に乗せ、葛が鐙の具合を確かめた。 「その髪では暫しの間戦場に出ることは敵いませぬ。一年ないし二年、織田島の殿から若の力を削ぐことで、些かの意趣返しをなされたのでしょう」 「殺されても、文句は言えなんだな」 「将康様は御器量を買っておられるのですよ、若の」  碤三も葛も馬に跨り、馬首を北へと向けた。 「遅れをとるな、小僧」  先に鞭を入れた碤三の後を追うように、葛と宗冬が続いた。  
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