姉妹

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 尾張の小大名で急速に勢力を伸ばしつつある織田島宗近(おだじまむねちか)の居城・清洲城二の曲輪(にのくるわ)。瀟洒な女屋敷の庭先、あの犀川の城にあった古木とは比ぶべくもない若い桜の木の下で、葛は舞い散る花弁に身を任せていた。 「生きよ、か」  あの時、5歳の自分に言い残した母の面影がふと、桜の向こうに現れた。思わず息を呑んだ葛に、その面影は微笑みかけてきた。 「また、桜の花弁と戯れておるのか」  その面影、いや織田島芙由子(ふゆこ)が、力なく微笑んだ。あの時の桜子と同じ23になった芙由子は、同じく三条橋の血筋だけに確かに似ているようでもあるが、目元には諦念による昏さがある。 1570年。気が付けば、母・桜子との別れから10年と言う月日が流れていた。15になった葛は、女物の小袖をまとい薄く紅粉を掃いて美粧を施していた。どう見ても、公家に仕える美しき少女そのものである。背中に流れる艶やかな黒髪にかかる花びらを、芙由子(ふゆこ)が細い指で払った。 「桜子様のことを想っておったのであろう」  葛の端正な横顔は、そうだと正直に答えている。女にしては怜悧に過ぎる顔容(かんばせ)ではあるが、これが実は男のものだとは織田島家に仕える者誰一人気付かぬことであった。主筋で知るのはこの芙由子と、兄であり今の三条橋家当主である道実(みちざね)のみである。 「まことに、桜の精と見紛うばかりの、お美しい方であった」  先の当主であり葛の母桜子の兄である師実と、道実兄妹とは従兄妹同士にあたる。道実の父は師実の異母弟で分家を起こしていたが、八年前の師実の急死に伴い、道実が新たに三条橋宗家を継いでいた。ともすれば一族もろとも京の魑魅魍魎(ちみもうりょう)に呑まれても仕方のないところであったが、若い道実は方々に顔が利き、また官僚としての能力も師実より遥かに優れていたために、何の差し障りもなく継承が行われたのであった。 「芙由子様は、犀川へ嫁ぐ前の母をご存知でございましたか」 「たった数度しかお目もじは叶わなんだ。わらわはまだ幼く、しかも大原に近い山中の荒れ寺で暮らしておった故のう。いや、ほんの一度お会い致すだけでもあの美貌の虜となろう。それほどにお美しかった。亡き師実様など、花の頃になると屋敷の桜の下に佇まれ、桜子様の名を何度もうわ言のように……」 「悪し様に言われた事でしょう」 「いいえ。あれは囚われ人の姿、桜子様への思慕に」  芙由子はそっと葛の手を取った。 「ほんに美しい。織田島家中の男達が振り向かずにおれぬは、道理じゃ。歩く腰つきなど、どこからどう見ても女子じゃ。悪い虫がつかぬかとハラハラ致すほどにな」 「奥方様、お戯れを」  いかに美しく女に化けようとも、その傷だらけの手だけは隠しようがなかった。忍の修行を積んでだあろうその手を、芙由子はそっと両手で包み込み、胸元に抱き寄せた。 「許されよ。歴とした忍の男であるそもじに、このような形をさせてしまうこと。それどころか、犀川家と我が三条橋の血筋でありながら……」 「奥方様、そのお話はもう。私は藤森市蔵に拾われた孤児、忍の端くれに過ぎませぬ」 「葛」 「師・市蔵こそが、私の父と思うておりまする。故に、長年お仕えして参った三条橋家御姫君の危急のために、我が藤森一門が命をかけるは当然の儀にござります」  そう言いながらも、伏せる葛の目元は、やはりどこか兄道実に似ている。切れ長の目尻にこうも長い睫毛さえなくば、華奢に通った鼻筋の下に桜色に染まるふっくらとした唇がなくば、弟と申しても余人は疑うまい。 「辛くはないか。15といえば、武家なれば嫁御をもろうておる年頃じゃ」 「嫁御どころか、このところ紅を忘れると落ち着きませぬ」 「まぁ」 「芙由子様こそ、可愛い盛りの若君様を人質に出さねばならぬこと、穏やかではございますまい」  黒々とした大きな瞳を曇らせて、芙由子が頷いた。 「殿は澪丸を嫌うておられる。あの蛇のような冷えた目で我が子を見下す様は、父のそれとは到底思われぬ」 「お控えくださりませ、どこに耳目があるかわかりませぬ」  三条橋家の娘たちは皆、亡き師実と道実という二人の当主の命により、その殆どが都にほど近い領地を持つ大名家に嫁していた。しかし度重なる戦乱で、芙由子の腹違いの姉たちも従姉妹たちも、あっけなく命を落としていた。芙由子とて、8年前にこの織田島家に人質同然に嫁がされ、置物のようにこの清洲の二の曲輪の端に追いやられていた。  この時、織田島宗近には、芙由子が産んだ嫡子・澪丸(みおまる)の他に、地侍の娘が産んだ次男と三男があった。宗近の側近くで養育されている次男らと異なり、澪丸はこの屋敷で芙由子と葛の手で育てられ、家中の者からも遠ざけられていた。  芙由子がこの織田島家に輿入れをする際、三条橋家からの一切の奉公人を織田島方が拒んだ。猜疑心の強い宗近が、公家に内情が筒抜けになることを嫌った為である。そこで兄道実が一計を案じ、身の回りの世話をさせる女童という触れ込みで、まだ七歳であった葛を女童に仕立て、輿入れに同行させることを織田島方に呑ませたのであった。代わりにと言い迫った条件は、織田島宗近の官位であった。 「従五位の下(じゅごいのげ)尾張守(おわりのかみ)、この名を手にいたさば、持参金とてない貧乏公家の娘に用はない。ただ一度義務を果たすべく閨を強いられ、人として扱われたことなどない。人形が生んだ息子なのだから、見向きもされなかろうと、むべなるかな……」 「いいえ、若は御正室のお子、三条橋の血を引く歴とした御嫡子にござります」  力強く言葉を継ぐ葛に、芙由子は沈んだ表情で首を振った。 「それだけではない。殿が澪丸を(いと)うはの……月を、月を抱く子である故じゃ」 「月、とは」  桜に向けた芙由子の呟きの意味を葛が問いかけようとした時、まだ前髪姿の少年が芙由子めがけて駆け寄ってきた。 「母上」  少年は芙由子の背中に体当たりし、香を焚き込めたその絹地に顔を埋めた。 「まあ澪丸、お行儀の悪い」  母の顔で微笑み、芙由子は息子に向き直ってその幼い体を抱きしめた。僅か7歳の息子は、明日にでも隣国美濃との県境を脅かす油井家へと人質に出されることとなる。仇敵とも言える油井家に、織田島家の嫡男である澪丸をなぜ出さねばならぬかと、この時ばかりは芙由子も談判したが、宗近は全く意に介すこともなく話を決めてしまったのであった。 「母上、一生懸命努めてまいります故、泣かないでくださりませ」  母の腕の中から、澪丸が健気に笑った。芙由子から憂いを取り払って幼くしただけのような、黒々と輝く大きな瞳が印象的である。 「心配などしてはおりませぬよ。葛が付き従うてくれますもの」  初めて聞く言葉に、葛は思わず声を上げた。澪丸もまた、驚いた様子で葛と母の顔とを見比べている。 「しかしながら、それでは奥方様が」 「案ずる事はない。油井家は尾張の国司でありながら美濃の土岐家と気脈を通じ、この織田島を滅ぼそうと狙っておる。かような鬼の住処へ大切な息子を一人でなどやれるものか」 「然様にはござりますが、私は……」 「後生じゃ、葛。澪丸の側にいてやっておくれ、この私の代わりに。何があろうと必ず守ってたも、可愛がってやってたも」  命ある限り付き従え、そういう命である。葛は全てを呑み込み、静かに跪いた。 「どうかお手を。私のこの命、これよりは澪丸様にお捧げいたしましょう」 「おお、聞き届けてくれるか……兄がそなたを私につけてくれた事、ただ一つの救いであった。情の薄い公家に生まれた私が、初めて家族を得たような心持ちであったのじゃ」 「勿体なきお言葉。奥方様のお優しい真心無くば、私などとうに……」 「人斬り獣に成り果てていたとでも申すか。その美しい己の姿を見てみよ、血筋は争えぬ。京仕込みの自慢の妹じゃ。私の凍った心を温めてくれた優しい妹じゃ」  笑いながらも一瞬、芙由子の瞳に死の影が走ったのを葛は見逃さなかった。その覚悟をしかと受け取りつつも、葛は澪丸に悟られぬよう笑顔のまま、微かに頷いて応えた。 「姉上、嫁に行くのはきっぱりと諦めましょう」  葛にしては軽口を言い、芙由子と澪丸が顔を見合わせて笑った。  数日後、澪丸は葛のみを従い、清洲城を後にした。ただ一人の見送りもない、孤独な旅立ちであった。  その日、二の曲輪では芙由子が自ら命を絶った。息子を蔑ろにしたことへの恨みも、三条橋家の血筋を利用されただけの悲しみも、夫に対して何一つ言い残すことなく、懐剣で頸部を絶ったのであった。
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