稲川家仕置

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      稲川家仕置

 その頃、駿府城にほど近い賤機山(しずはたやま)城内では、城主・朝比奈且将(かつまさ)が姪の安佐とその子宣将(のぶまさ)を自害に追い込み、その首級を整えていた。  元来気位の高い安佐は、宣将の正室にと密かに甲斐の高田と通じていた。宗近と将康の間で縁談が纏まりかけていただけに、宗近の怒りは凄まじかった。既に尾張との国境にある大高城と鳴海城を囲まれ、漸く代官を置いたばかりの渥美半島にも兵が向けられようとしていた。慌てて申し開きをすれども宗近の怒りは治らず、将康は涙を呑んで、大高、鳴海、渥美半島と妻子の命を引き換えにしたのであった。  しかも、稲川頼将が水面下で駆け引きを続けていた相模の南條(なんじょう)との縁談が破綻してしまったのも、この安佐と高田(たかだ)家の繋がりが知られた為でもある。 「急ぎ奥川殿に届けよ」  これで稲川と奥川の縁は切れた。しかしながら、将康は二人の首と引き換えに、織田島宗近への抑えとなる事を約束したのである。  数年前までは、稲川が奥川に同情されるなど思いもよらなかった。頼将は駿河・遠江守護職を得て東海での力を磐石とした筈であった。だが、相模の南條との婚姻話が頓挫し、同盟の約定も立ち消えとなった今、尾張と美濃全域を押さえた織田島の存在は脅威となっていた。ここで奥川が先に倒れることがあれば、いよいよ稲川も危うい。 「頼将公が病を得られた途端にこれでは。忠臣として稲川家にお仕えして参った御先祖に申し開きができぬ」  そして朝比奈家の位牌の前に座し、前合わせをくつろげた。そして懐剣をその腹に突き立てようと唸りを上げた瞬間、具足姿の頼素が飛び込んでその手から懐剣を蹴り飛ばした。 「且将、早まるでない」 「しかし、姪とはいえ主家のお血筋を手にかけ申した」 「だからと言って、お前に死なれては困るのだ。今の私に、あの混乱する家内を収める術はない。おまえの力がいる」 「しかし私は奥川と」 「お前の機転で、完全に手切れとならずに済んだのは幸いじゃ。将康殿は今の宗近に唯一ものが言えるお方。表向き縁が切れたとは言え、命綱と大切に思わねばならぬ」  且将はペタリと両手をついて肩を落とした。 「父のやり方はもう古い。これからは奥川や相模の南條とも上手くやっていかねば、国そのものが滅ぶ。駿河の大将で踏ん反り返っていては、食い荒らされて仕舞いじゃ」 「頼素様」  守護職を正式に得た後間も無く、頼将は床についた。重篤ではないが最早戦に出られる体ではなく、今や家内の仕置にも口に出せぬほどであった。しかしながら、嫡子とはいえ、まだ実権を握るに至らぬ頼素に家臣は従う筈もなく、家内は混乱していた。そこへ頼将の弟・親雅(ちかまさ)が次の当主にと叛意を翻し、頼素に反感を持つ老臣を抱き込んでいた。 「ここを本陣と致す。母も妹も間も無くここに着くであろう」 「殿は、頼将様は」 「殺された、叔父いや親雅に」  駿府が既に謀反者の手に落ちたと聞き、且将は愕然とした。あの盤石で華やかであった稲川の繁栄が、音を立てて崩れていく。既に物見窓の向こう、駿府の城下からは火の手が上がっている。 「且将! 」 「は、はい」  元々は家中でも切れ者と称されている且将である。両頬をぴしゃりと数度叩き、部屋の外でおろおろと話に聞き耳を立てていた小姓達に檄を飛ばした。 「まずは御方様と姫様を無事に城内へお連れするべく兵を出せ」 「かしこまりました」  小姓を行かせた後、且将は頼素を伴って物見櫓へと駆け上がった。筒眼鏡で城下を見る限り、駿府城から兵が出てくる気配はない。 「親雅めは元々狡猾で信義を持たぬ性格。然程人望があるとも思えぬ。城内でまたぞろ一悶着起きるだろう。それまで十日いや数日、まずは我々と同世代の、老臣の息達を切り崩す。且将は夜陰に乗じて駿府城下の備蓄兵糧を奪って参れ」 「交渉にはどなたが」 「私が行くに決まっておろう」 「若殿が直接にですか」 「不満か」 「いえ、或いは若殿のお人柄こそがこの劣勢を覆せるものと。兵糧はお任せくだされ、駿河忍を使います」 「直に味方は増える。しばし堪えてくれ」 「若……勿体のうございます」  頼素の言葉通り、且将が駿府城の兵糧の備蓄を強奪した後、親雅に味方をしていた老臣たちの子息が次々と頼素の麾下に入った。旗色を伺うように城下で息を殺していた彼らを、頼素が夜陰に乗じて一人一人説得しては切り崩したのである。中には親に逆らう事ができずに城へ入る決断をした者もいるが、かといって頼素に刃を向ける事はなかった。  工作に走る中で、人望があると思っていた照素が裏では傲慢な一面を見せて頼素の廃嫡を狙っていた証が出てきて、頼素を失望させたこともあった。  正当な正室腹の嫡子であり、血筋の良さならではの鷹揚さを持つ頼素に、身内以外で叛意を抱くものが然程いなかったのは嬉しい誤算と言えるが、それは武将としての器量を認めてのことではない事は、頼素自身がよく承知をしていた。 「皆の者、よう集まってくれた。頼素は正当な嫡子、我が息にして四津寺家の血筋でもある。由緒ある稲川を継ぐのは断じて親雅(ちかまさ)ではない。器量に優れた頼素殿以外に、稲川の当主は有り得ぬ。然様肝に銘じよ」  賤機山城の大広間に集まった若い武将らに気を良くした頼将正室・多喜は、揚々と大演説を繰り広げた。隣に座していた頼素は、母の演説を鼻白む表情でどこか小馬鹿にしたように聞いている若い家中をじっと観察していた。 「母上、後はお任せを」 「頼素殿、わらわはまだ……」  興奮冷めやらずに尚も演説を続けようとする多喜を制し、腰元に命じて下がらせた。  弛緩した空気が流れていた。所詮母親の後ろ盾なくば内乱も収められぬとは、とんだ目擦りであったと、心の声が聞こえるようであった。 「思い違いをされては困るが……そなたらの父や兄の多くが城に籠っておる。私は父が認めた正嫡であるゆえ、城の連中は言わば謀反人である。その方らがここで働きをいたさば禄は安堵、これまでの家格を認めようが……働かぬというなら今ここで成敗いたす」  頼素は大音声を上げ、刀を抜いた。大広間に緊張が走り、傍らでは且将が息を呑んで見守っている。 「じゃが、そのような卑怯未練な者はいないと信じておる。ここにおるのは正当な駿河武者、紛うことなき武辺者ばかりであろう」  おお、と若い咆哮(ほうこう)で大広間が揺れた。    頼素を大将とする若い軍勢は、よく統率されたまま城下を進み、瞬く間に城を取り囲んだ。頼素は生まれ育った城だけに瞬く間に水源、兵糧、武具の類の一切を断ち、城内に埋伏させておいた腹心の配下と呼応して、主だった下人や奥女中など意思に関係なく城に足止めされていた者達を外へ逃がした。すると多くの足軽達まで逃げ出し、城内は総崩れとなった。生前の頼将が多くの者に慕われていたことの現れであり、元来人望のなかった親雅はすぐに行き詰まった。そして頼素が城を囲んでたったの5日後に、鞍替えを目論んだ老臣たちに殺害された。頼素の突き崩し策は功を奏し、城下や城内も然程に消失する事なく城を奪取することができた。  親雅に与した老臣達は皆切腹。但し、連座は許し、頼素の元に馳せ参じた息子達には所領を安堵し、素早い論功勲章が行われた。  頼素はすぐさま大叔父にあたる全徳寺住職・庵原秋斎(いはらしゅうさい)を甲斐・信濃を治める名族高田玄道(たかだげんどう)の元へ走らせた。  庵原秋斎は頼将の父・頼隆の末弟であり、早くから僧籍にあって家督相続とは縁遠い暮らしをしていたが、頼将が異腹の兄と家督を争った際にその際立った手腕を発揮して頼将を当主の座に据えた。頼将の叔父といっても5歳ほどしか年が違わず、未だ48才という若さであった。  秋斎はその外交手腕を見事に発揮し、かつて油井家から離縁されて尼僧の如く全てを諦めていた(より)姫を頼素の正室に、頼素の異母姉・都夜(つや)姫を相模の南條実政(なんじょうさねまさ)の嫡男実俊(さねとし)の正室に、更に実政の三女・乃生(のぶ)姫を高田玄道嫡男である隆信に嫁がせるという、三国のそれぞれぞれの守護大名を一気に婚姻にて結びつけるという離れ業をしてのけたのである。  背後の憂いを除くことのできた頼素が駿河と遠江の領内の体制を整え、十分な軍備を整えることができるまでには、あと二年近い年月を要することとなる。  
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