野花

1/1
前へ
/77ページ
次へ

       野花

 1579年夏。将康は岡崎城下外れの小さな寺で、石塔の前に跪いていた。ここには一年前に死んだ安佐と宣将の首が眠っている。 「葛か」  手を合わせたままの将康の横から、色鮮やかな野花が差し出された。 「若からにございます」  まだ夏の盛りではあるが、山間にはこのような野花が咲いているのかと、将康は優しげな表情で花を愛でた。 「周忌の法要とてしてやれなんだわ」 「安佐様と宣将様は、おいたわしいことでございました」 「結局は、この二人を無駄死にさせてしもうた。命と引き換えに守ったはずの大高城と鳴海城には、宗近殿の腹心が代官として入っておる。実質は織田島のものじゃ」 「しかしながら、田原、渥美の港は死守されました」  野花を石塔に備え、将康は立ち上がった。振り向くとそこには艶やかな美女が跪いており、思わず将康は息を呑んでその美しさに目を奪われた。  長い髪を背中でくるりと輪を象るように巻いて垂らし、耳元には野花が一輪飾られている。出で立ちこそ近隣の国衆の女房のようであるが、それだけに葛本来の艶やかさが際立っていた。 「これが誠に、宗冬を守ってたった一人で織田島の追っ手を斬り抜けた人物とはのう」 「あの折は藤森の仲間もおりましたゆえ」  将康は葛を立たせ、庫裏にと誘った。  味気のない質素な庫裏ではあるが、続き間が茶室のような設えになっており、将康は自ら茶を点てて振る舞った。  京仕込みの見事な所作で飲み干す葛の横顔を、将康は眼福とでも言うかのように見つめていた。 「そのようにじっと見つめられては……」 「いや、何やら以前より色香が増したように思うでな」 「ご冗談を」  からからと笑い、将康は茶器を受け取った。 「あの清洲の城で儂は死ぬだろうと思ったが、頼素めが存外手早い動きをしてくれたでな、こうして首が繋がっておる」  稲川から届いた安佐と宣将の首を抱いて、石川一貴の僅かな兵だけを連れて将康は自ら岐阜城へ向かった。まだ辛うじて影響下にあった鳴海と大高の両城に備えを固めさせ、渥美の田原一統に清洲間近まで軍船を回らせ、万全に背後を固めた上である。  先に首を差し出されては宗近も何も言えず、また信濃の高田が稲川と結んだ事で美濃の固めにまたぞろ神経をすり減らさなくてはならず、奥川を潰すどころではなくなったのであった。 「あの頼素に、あそこまでの行動ができるとは、意外であった」 「阿呆にしか見えませなんだが」  口元に手を当て、葛が女声で笑った。 「宗冬は息災のようじゃの」 「陰ながらお見守りを頂いておりますこと、主に成り代わり篤く御礼を申しげます」 「掌中の珠であるからの。それより清洲からの道行き、さぞ難儀であったろう」  それはもう、と目に些かの怒りを込めて微笑むと、将康がおどけたように肩をすくめた。 「岐阜城の哨戒兵と遭遇し、止む無く斬り抜けました。最早織田島家中に宗冬様と言うご嫡男がおわすことは忘れられている由。今は力丸様が宗良(むねなが)様と名を改められ、実質のご嫡子とおなりに。最早公家のお血筋もあの殿には無用。宗冬様もこの度のことでいよいよ織田島との決別を心に定められたご様子にございます」 「人質生活が長いと、家中にはもはや馴染めぬ。伊達に他家を知る故、嫌なところばかりが目に付くしのう。儂はまだ、人質から解放された頃は祖母も母も存命であった故、かえって家中を纏めることもできた。酷いことよのう」 「若は、そのようにお心を砕いてくださる将康様を、心の父と慕うておられます」  ふと将康の隣に詰め寄るようにして膝を崩した葛が、そっと将康の膝に手を置いた。 「いつか必ず将康様のお側に参ると、言伝かっておりまする」  しなだれかかる葛の白い頸に、将康がゴクリと固唾を呑んだ。前合わせの奥に手を滑らせて本当は女なのではと確かめたい衝動に駆られた時、外で枝折戸が開けられる物音がした。慌てて居住まいを正し、葛は辞儀をしてその場から立ち去っていった。  寺の外では軽衫(かるさん)姿の碤三が頬を膨らませて立っていた。  いよいよ将康に身を任せるのではないかと焦った碤三が、わざと大きな音を立てて枝折戸を蹴飛ばしたのであった。 「おまえさぁ、最近その手を使いすぎじゃねぇの」 「んん、そうかな」  ペロリと舌を出して、葛は碤三の腕に巻き付くようにして体ごと密着した。 「妬いたか」 「馬ッ鹿じゃねぇの。お役目だって承知の上だぜ」 「ふうん」  小娘のように笑って、葛は跳ねるように碤三の前を歩いていった。  夫婦とはこういうものかなどと、きっと自分の鼻の下がひどく伸びた間抜け面になっている事を自覚する思いで、碤三は葛の背中を見守った。 「あれが宗冬の事となると、鬼の形相になって決して斬り負けないんだから、俺の奥方様は恐ろしい限りだ」  そう呟く碤三の眼前では、葛が歩きながら瞬く間に髪を結い上げ、女房の小袖を裏返して墨染めの軽衫姿に替えていた。 「今日の夕餉は、若に猪肉を差し上げたい。手伝え」  うって変わった男声でそう言われ、碤三は立ち止まって天を仰いだ。  
/77ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加