夫婦

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       夫婦

 実は三人は、岡崎城から山間に奥深く入り込んだ、あの白糸の滝の側で庵を結んでいた。  一年前のあの清洲城脱出の折、まずは藤森の里を目指そうとしたが、織田島の兵が街道や山間の間道まで、蟻の這い出る隙も無い程に固めていた。仕方なく、一旦美濃を北上して岐阜城の北を迂回するようにして、奥川へと目が向いている宗近の背後を駆け抜けた。岐阜城の側を駆け抜ける際、宗冬の弟・力丸改メ宗良が率いる一隊と遭遇した。しかし宗冬は将康の立場を慮って咄嗟に織田島と敵対する国衆を名乗り、葛の制止を振り切るようにして刀を抜いた。その時、宗冬ははっきりと織田島と決別したのであった。 「おおい、着い……」  二人が馬の背に食料をたっぷり乗せて白糸の滝の少し下流の河原に降り立ち、滝壺で馬を洗っているであろう半裸の若者に声をかけようとした碤三の口を、葛が塞いだ。  二人がじっと見つめる向こう、半裸の若者に向かって水音を立てて若い娘が滝壺に入ってくるなり、その若者の胸に飛び込んだ。 「何だ、お(ひろ)坊がいたのか」  若者は、16になり益々体つきが逞しく成長した宗冬である。  髪はまだ髷を結い上げる程ではないが、頸のあたりで一つに纏められるくらいには伸びていた。碤三と葛を相手に修行を怠らず、時折は京の三条橋家へ出かけたり、藤森衆を率いて東海の状況を探りにも出かけている。遠江の稲川領を抜けるようにして喜井谷にも時々出かけていた。  今、胸の中にしっかりと抱きしめている少女は、喜井谷からの帰りに山賊に襲われて擦り傷を作った蒼風の手当てをしてくれた伝馬の少女、紘である。東海の山中では、度重なる戦で主家を失い、働き口を失って盗賊化した浪人達が街道を荒らし回っていた。紘の父は駿府と渥美半島を結ぶ輸送組織である伝馬の長であった。馬の扱いに長け、中には軍馬として育てた馬を大名に提供して大金を稼いでいるものもある。紘の父もそうした一人で、将康に若い軍馬を収めた帰り、街道で襲撃されたのであった。  たまたま山間を走っていて紘の絶叫を聞きつけた宗冬が街道に躍り出て盗賊一味を殲滅したものの、紘の父は亡くなり、紘も既に盗賊に穢されていた。  父を懇ろに葬った紘は、蒼風が盗賊どもの矢が掠って怪我しているのを見つけ、一心不乱に手当てをしたのだという。己が襤褸(ぼろ)を纏っただけのような酷い姿であるのも関わらず、仲間の遺骸から取り出した膏薬(こうやく)を塗り、熱を出さぬよう夜通し看病する姿に心を奪われた宗冬が、行き場のない紘を連れ帰ってきてからもう三月余りが経っている。  早熟な街娘である紘は、ここにきた晩にはもう宗冬と体を重ねていた。(けが)れを払うかのように、二人は滝壺の中で睦みあった。初めて女の体に触れた筈の宗冬だが、紘に導かれるまま、男となったのであった。  その姿を目にした葛は、交わる二人の姿に激昂し、宗冬の体の秘密を知られる前に紘を斬るべく刀を抜こうとしたが、碤三がそれを止めた。  食い下がる葛を抱きかかえるようにして、碤三は杣小屋へ引っ張っていった。 「お前に甘えていたガキが、いつの間にか立派な男になったな」  まるで息子を取られたかのような喪失感で一人焚き火の前に座る葛を、背中から抱いた。 「やっとわかったよ、お前が俺を拒み続けていた理由」  答えぬ代わりに、葛の目尻から涙がこぼれ落ちた。 「あいつは男になる道を選んだ。ちゃあんと、男になった。人質暮らしの中でいつ誇りを穢されてもおかしくなかった弱っちい美童が、逞しい男になったじゃねぇか」 「ああ、そうだな」 「男になる道を選ばなかったとしたら、おまえが女にしてやるつもりだったのか」  耳元で囁く碤三を振り返り、葛は胸ぐらを掴んだ。 「無礼を申すな。私は……若が誰とも繋がることができぬのなら、私も、誰とも繋がらぬ、誰とも契らぬ、私だけが温もりの中で眠ったりはせぬ、そう決めていた」 「でも、あいつはもう、温もりを知ったんだ。お前のそんな母のような温もりも、父のような温もりも、勿論あいつはちゃんとわかっている」  だから、と碤三は葛の拳をそっと解いた。 「おまえも、俺の温もりを知ってくれよ」 「碤三……承知とは思うが、私は、男だぞ」 「まぁ、乳好きとしてはそこだけがなぁ」 「乳……このド阿呆っ」 「でも、嫌いじゃ無えだろ、俺の事」  グッと唇を噛んで葛が上目遣いに見つめる。その表情はまるで初な小娘のようである。 「嫌いじゃ、ない」 「ほらな。今までだって、本当は抱いて欲しいって顔に書いてあったぜ」 「し、知らん」  散々女を装いその色香を利用して方々の男たちを籠絡(ろうらく)してきた葛が、頰を赤らめて俯く様は何とも初々しかった。体の芯に火がついたような、こみ上げてくる熱に逆らうことなく、碤三は葛の細い頸に口付けをした。最早葛も逆らわず、碤三の腕の中で向き直り、熱い胸板にうっとりと頰を預け、背中に両手を回した。 「夫婦に、なろう。ずっとそう願ってきた」 「だが、私は穢れきっている。知っているだろう」 「ああ。おまえが本当は綺麗な体だってことを、俺はちゃんと知っている」 「でも、お頭に……」 「あれは違う。お頭が抱いていたのはお前の中のお前の母ちゃんだ。おまえじゃない」  そんな馬鹿な話、と、なおも食い下がる葛の唇を塞ぎ、碤三は力任せに横たえた。  飽くことなく何度と重ね合った後、葛は月明かりの滝壺に身を沈めていた。いくら冷やしても冷やしても、あの熱が消えることはない。碤三の匂いがまだ全身を包んでいる。これが、誰かと契るという事なのだと、少し気怠さも残る己の体を抱きしめた。  あくまで優しく、碤三は葛と一つになった。どんなに拒まれても焦らされても決して葛を一人にしなかった碤三の優しさが、この全身に注ぎ込まれた。  どうしようもなく愛しいと、葛は咽び泣いた……。  滝壺で抱き合う若い二人を見つめながら、三ヶ月前の初めての契りを思い起こしているかのように両腕で己を抱く葛の上気した頰に、碤三が口付けた。 「よっぽどおまえの方が生娘みてえだぜ」 「か、からかうな」 「可愛いって言ってんのに」 「こんな年増男に可愛いだなんて、馬鹿っ」 「と、年増男て……」  呆気にとられる碤三を放って、葛は杣小屋へと歩き出した。
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