弟

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        弟

 宗冬と碤三が猪肉を焼いている間に、葛は紘と河原で野菜を洗った。そろそろ米も炊ける頃である。 「姉さん」  何度葛が男だと説明しても、紘は姉さんと呼んだ。 「今日はちょっと麦が多いが、致し方あるまい」 「飯の事じゃないよ……宗冬様だけどさ」  手元の野菜をざるに上げて水を切り、紘が口籠った。 「いつかはお大名にお戻りになるんだよね」 「無論だ。その日の為にこうして忍んでおられる」 「そしたらさ、あたしは……」  紘が無意識に腹に手を置いた。葛は固唾を呑んで次の言葉を待った。 「わかってるんだ、身分が違いすぎるし、あたしは一時の慰み者でしかないんだって」 「埒もないことを」 「喜井谷の直獅郎様は、亡くなった従兄が農婦に産ませていた子供を養子になさったと聞いたよ。だから……」 「まさか、おまえ」  喜ぶというよりは、不安で今にも泣き出しそうな表情で紘が頷いた。 「あたしが生んだ子はどうなるの、宗冬様は……何て言うだろう」  わかりきった事だ。宗冬なら、自分の体が子を成せると知って驚き、歓喜し、何を置いても守ろうとするだろう。だが、宗冬が再び戦国の荒波に身を置かねばならぬ時、子の存在は必ず邪魔になる。ましてや伝馬の、早熟な街娘が産んだ子である。  真実、宗冬の胤かも分からぬ。  逡巡する葛であったが、飛来物が空を切る気配を察し、咄嗟に紘を庇って身を伏せた。 「な、なに」 「騒ぐな」  驚いて体を起こした紘の頭を尚も押さえつけ、身を低くしたまま紘を抱きかかえるように大岩の陰に逃れた。その足元に、さらに二矢が突き刺さった。確実に狙いを定めて放ってきているが、その腕はまだ未熟さを感じさせた。 「身を低くしたまま、その岩場を駆け上って杣小屋に行け」 「姉さんは」 「言う通りにしろ、一応これでも玄人だ」  紘を安堵させるように微笑み、葛はその背中を押した。流石に伝馬の娘である、軽々と岩場を駆け上がり、瞬く間に森の中に姿を消した。 「さて、な」  台所仕事と言っても何時襲撃されるかわからない。この河原にはそこ彼処に仕掛けがしてあった。  大岩の陰で石ころ手でかき分けると、鹿皮に包まれた弓矢一式が現れた。  弓を引き絞ったまま、足で小石を河原へと蹴り飛ばすと、すぐに対岸の森の中から矢が飛来した。敵の位置をおおよそ測り、立て続けに三本矢を放ち、葛は弓を捨てて駆け出した。  密やかであった対岸に、葛の矢を受けて混乱が生じていた。 「愚か者、我に構うな、女を早う仕留めろ」  甲高い声で喚く若い侍の腕からは血が滴っている。当たりはせずとも、掠って皮膚を裂くには十分であった。悠々と木々の上から手応えを確かめていた葛は、共侍達が右往左往するその背後にひらり舞い降りては仕留め、素早く木の枝に飛び退き、再び音もなく舞い降りては仕留め、瞬く間に若侍を孤立無援にした。 「織田島家中には、腕の立つ武士はおりませなんだか」  血振りをくれながら、葛はゆったりと若侍に近寄った。若侍が怖気付いたように後ずさり、丁度月明かりが差し込む場所に立った。その顔を見て、葛はやはりと呟いた。 「往生際が悪いですね、あれ程完膚なきまでに叩きのめされておきながら、またぞろこのように手際の悪いことをなされるとは、力丸様」 「そ、その名で呼ぶな! 我は、我は宗良(むねなが)じゃ、織田島の嫡子ぞ」  迫る葛の前で無様に尻餅をつき、泣きながら失禁しているのは、宗冬の異母弟で宗近の三男力丸こと宗良である。母は滝王丸と同じく小牧(こまき)の方。美濃守護の家柄の出である明野姫が我が子を嫡子とするべく正室然として振舞っている為、小牧の方は肩身の狭い思いをしているという。しかも先の奥川将康と宗近の対面の折、宗良は岐阜城周辺の哨戒を任されていながら城の鼻先を敵対する国衆に扮した葛達にまんまと横切られ、母子共々宗近の激しい怒りを買っていた。  後ろ手に縛り上げられたまま、宗良(むねなが)は杣小屋で宗冬と対面した。 「将康めは、兄上が髷を置いて出奔したと申しておったがその実、逃したは当の将康であろう。こうなれば父上が将康を懲らしめるだけじゃ」  初めての兄との対面もそこそこに喚き散らす宗良を見て、葛ら一同が顔を見合わせて溜息をついた。 「こいつ、阿呆だな」 「そう言うてくれるな。力丸はまだ13じゃ、子供じゃ」 「はて。若は13であの稲川照素を討ち取られたのでは」  葛の言葉に碤三がしみじみと頷いた。 「それも一騎打ちだもんな。度肝抜いたぜ」 「嬉しいのう、碤三が初めて私を褒めてくれたな」  まるで家族のように笑顔を交わす4人の様子に、宗良は言葉を継ぐことを諦め、昏い顔で俯いた。  宗冬が、そんな弟の顔を覗き込むかのように、宗良の向かいに座った。 「父上のことだ、思った働きをせぬでは叱られるであろう」 「若、同情はご無用に」 「初めて会うたと言えど、弟は弟じゃ。のう宗良、私が今更織田島家に戻ったとて従う者などおらぬ。私など、お前の相手ではないのだ」 「違う! 」  宥める宗冬の言葉に、宗良が激高するかのように噛み付いた。 「今更ながらに父上は兄上の御器量を惜しんでおられる。我など眼中にないのだ、宗冬がおれば奥川も稲川も敵ではないと、我が目の前にいると言うのに……たまたま岡崎への使いの帰り道、馬を休ませようとこの河原に立ち寄ったら、その女が兄上の名を」 「あ、あたし」  ごめんね宗冬と詫びる紘の頭を、宗冬は優しく撫でた。 「耳を疑ったが、もし本当ならと……女二人を生け捕りにして、この辺りを探っていれば兄上をおびき寄せられるかと」 「女、ふたり」  葛は思わず自分の姿を確かめた。地味な小袖に軽衫、ありきたりな町人の姿である。あの岐阜城で戦った時とは確かに出で立ちは大分違うものの、自分をあの折の頭目だと認識して襲ったわけではなかったのかと、改めて葛は宗良の短絡的な頭の回路を哀れんだ。 「そりゃそうだよ、どんな襤褸来てたって、姉さんの美貌は隠しようがないもん」 「同感じゃ」 「男の姿していても女に見えるんだから、やべえよな」  腰に回してきた碤三の手をギュッと抓り、葛は宗良の鼻先に切っ先を向けた。 「確かにあなたを放免したとて、織田島が脅威を増すことはなさそうだ」  かすかに刃先を揺らし、葛が戒めを解いた。 「どこへなりと、行かれるが良い」 「お、おのれ、馬鹿にしおって、今に目に物をみせてくれるわ」  声をひっくり返しながら憎まれ口を叩き、宗良は杣小屋(そまごや)からよろよろと出て行った。 「無事に帰れるだろうか」  微かな血の繋がりを確かめただけだというのに、宗冬はそんな人の良いことを言って全員の怒声を浴びた。 「途中で死んだって構いやしないよ、あんな唐変木(とうへんぼく)」  「若は人がよろしいにも程がございますぞ」 「ま、そこがこの小童の良いところなんじゃねぇの」 「こ、小童ではない! 」  思わず反論してしまってから、宗冬は何かを言いたそうに上目遣いで葛を見つめた。 「いけませんよ、そんな可愛らしいお顔をしても」 「葛、そこを何とかならぬか」 「いけませぬ」  と言いながらも、葛がどう対処しようかを既に算段し始めていることは、長い付き合いで良く解っている宗冬は、是と言葉にはしていない葛めがけて抱きついた。 「やっぱり葛じゃ、私の姉上様じゃ」 「まだ何も申しておりませんというのに」  仕方のない若君だとばかりに、葛がまんざらでもない様子で宗冬の逞しい背中を撫でていると、藤森衆の伝令役を務めている兵衛(ひょうえ)が飛び込んできた。まるで猿のような袖無しの毛皮に短袴という姿である。 「頭、取り急ぎ申し上げます……高田玄道(たかだげんどう)が死にました。卒中です」 「何だと」 「それが、影武者を使って三ヶ月はその死を隠蔽していたようですが、嫡子隆信(たかのぶ)と四男治信(はるのぶ)の間で家督争いが起きた事で知れるところとなりました」 「治信を担ぐ理由がわからぬが……そうか、織田島の殿の仕掛けか」  治信の母は明智家の出であった。かつて西道義廉(さいどうよしかど)と手を組んで土岐家と手切となっていた明智家は、義廉の末弟による謀反に引き摺り込まれ、小大名としての対面も失って没落していた。しかしただ一人明智直系の男子である明智宗兵衛(あけちそうべえ)という男が、謀反を鎮めたもののかつての力を失った義廉から袂を分かち、明野(あけの)姫の強い推挙もあって、織田島家家臣として異能を発揮していた。  明野姫のかつての婚家であり、明野姫の生母が明智の一族であることも、宗近は宗兵衛を通じて最大限に利用していた。治信が隆信より戦功が多い事もあり、宗兵衛の見事な策にまんまと高田の血気盛んな家臣たちは嵌められたのである。 「決着は」 「隆信は治信を斬りました。治信に連座して、生母の湖瀬(こせ)の方も。お二人の首級(みしるし)柘榴館(ざくろやかた)の門前に晒されているのを俺がこの目で確かめてきました」 「痛ましいことを……しかし隆信も存外思慮に欠ける男だな。兵衛、忙しくなるぞ」  葛は兵衛に里での戦仕度と、各大名家に忍ばせている者達との繋ぎ役に新たに数人の名を挙げた。 「単独では決して動くなと伝えよ」 「承知」  兵衛を見送りながら、葛は長い髪をくるくると巻き上げて(かんざし)で止めた。奥の行李(こうり)からあれこれ取り出すなり、瞬く間に旅の瞽女(ごぜ)姿に変わった。 「碤三、お紘坊を藤森の里に送ってやってくれ」 「承知」  ここはもう、頭と小頭という力関係に逆らうべくもない。碤三も直ぐに両刀を手挟(たばさ)み、身に着ける装備を精査し始めた。 「若、宗良様をお送り致しましょう。但し、岐阜ではございませぬ」 「もしや、岡崎か」  大きく頷き、葛は同じく瞽女(ごぜ)の衣装を差し出した。 「織田島は高田攻めに際し、必ず奥川殿に援軍を出すよう命じてくるでしょう。宗良を人質に将康様にお預けになり、あなた様が軍を率いて出陣為されよ」 「私が、奥川軍としてか」 「隙あらば、殿を討って家督を奪取なされませ。叶わずとも、殿に一泡吹かせてやりなされ。これまでの忍従を、矢弾で突きつけて差し上げるのです」  援軍のふりをして合流し、あわよくば父を討つ……荒唐無稽だと解っていながら、これまでの辛苦を、母の無念を、あの冷淡な父にぶつけてやりたいと宗冬は心から願った。 「面白い、武将としての私を見ていただこう」  宗冬は、不安げに成り行きを見つめたまま言葉も出せずにいる紘を抱き寄せた。 「怖がらせてすまぬ。どうか里で待っていておくれ、必ず、必ず迎えに行くから」  闘志を宿して紘を抱きしめる宗冬の背中を、碤三が力を注ぐかのように思い切り叩いた。 「紘の事は心配いらん。暴れてこい、小童(こわっぱ)」  その後間もなく、二人の瞽女が岡崎領の山中で途方に暮れる力丸と合流したのであった。              
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