7.伊那・高遠攻防

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7.伊那・高遠攻防

 瞬く間に織田島勢は美濃を通り抜けて明智領に入った。高田勢は隆信を旗印に急ぎ軍を立て直し、まずは玄道の末子で隆信の異母弟である高遠城主・仁科克信(にしなかつのぶ)に援軍を送った。克信の母は木曽一帯を収める古豪長野家の出であった。すぐに長野勢と信濃の国境を固め、荷駄が行き来する街道を封鎖した。  奥川将康は、当然のごとく援軍を要請してきた宗近に従い、渥美の田原党と喜井谷の鉄砲隊を吸収し、喜井谷を経由して田峰城に入った。まずは東濃の山方衆を調略にかけた。  田峰(だみね)城の元々の主・菅田廉唯(すだよしただ)は、この先の武節城も含むこの信濃・美濃・三河の国境の山間部を治めていた。常に土岐家や高田家の脅威にさらされ、玉虫色の外交で何とか生き延びてきたものの、織田島の台頭によって土岐が滅び、隣接する明智一族が織田島に与したことで来し方を定められずにいた。高田からの誘いにも乗る素振りをしながら決断までの時を稼いで居る時に交渉役として現れたのが将康の家臣・酒匂清重(さこうきよしげ)であった。  元来山間にあって石高が決して高くはなく、戦のたびに疲弊していた山方衆は、織田島の高田攻めに反意を見せるまでもなく城を開けたのであった。  木曽路の入り口となる岩村城の遠山信方は明智宗兵衛が、この田峰城と武節城の菅田廉唯は酒匂清重が調略し、それぞれ信濃への前線基地として織田島・奥川軍を迎え入れたのであった。  奥川軍本陣に、織田島方の使者として明智宗兵衛が現れた。  帯同していた宗良を伴い、軍装を解かぬままに宗冬が謁見をした。 「明智宗兵衛光繁(あけちそうべえみつしげ)にござりまする」  慇懃に平伏する宗兵衛の所作は、田舎侍のそれではなく、宗冬もよく知る京風の、貴族的な高貴ささえ感じさせるほどに流麗なものであった。 「どうぞ面を。私が織田島宗冬にござる、以後見知りおきを」  短くそう答え、宗冬は少しばかり頭を上げた宗兵衛の風体をしげしげと見つめた。決して美男というわけではないが、武辺で鳴らした三河武者のむくつけき男たちとは一線を画す爽やかさがある。葛が言うには一刀流の免許皆伝の使い手とのことだが、ひょろりと細身で背が高く、怪鳥の如く飛び上がって真っ向唐竹割りに相手の脳天に刀を打ちおろすような、敏捷さも力強さも感じない。 「某に、何か」 「いや、大変に有能な方と聞いておりましたので、もっとこう、四角四面な雰囲気かと」  むしろ、そうにっこりと微笑む宗冬を、宗兵衛は怪訝な顔で見上げていた。 「あのう、明智殿」 「あ、どうぞ宗兵衛とお呼びを……いや、失礼。お噂通りの可憐なお姿で、とても十三の年に一騎打ちで稲川照素を討ち取られたようには見えませず、ちょっと驚いております。もっと昏い陰を背負われて、人を拒絶するような……そんな方を想像しておりました」  まるで遠慮というもののない真っ直ぐな物言いに、むしろ面頬をつけて武将姿で付き従う葛が、さっと気色ばんだ。思わず刀の柄頭に手を置いた葛を、宗冬がにこやかに制した。 「きっと、人質生活が長かった故、人の顔色を伺う事に長けているだけです」 「いや、目の前の貴方様からは、そんな卑屈さは微塵も感じません。出会われた方々に恵まれたのでしょう」 「ええ、確かに私は恵まれております。何しろ私には、姉と、兄と、そう呼べる者がいて、心の父と、そう慕う奥川殿がいて、そして……帰りを待ってくれている妻がおります」  一言一言、相手への思いを込めるようにして大切に答える宗冬に、宗兵衛は既に取り込まれていた。 「あなた様になら、安心して命を預けることができまする。数々のご無礼、ご容赦を」 「それは私とて同感。見ての通りの若輩です、ご指導ください」  滅相も、と屈託なく手を振り、宗兵衛は漸く宗良を見た。 「殿は、確かにお怒りではござるが、無事を知って安堵されてもおられる。織田島の陣に戻り、まずはよく謝罪をすることです」  優しく諭す宗兵衛に、宗良はプイと顔を背けて応じた。 「して、父はどう動きますか」 「はい」  宗兵衛は胴着の下から絵地図を取り出し、盾を裏返して並べただけの軍卓に広げた。 「岩村城に続き、苗木(なえぎ)城も家中にいる我が縁戚が既にこちらに呼応しております故、木曽福島攻めまでは無傷にて軍を進めます。初戦はまず、福島そして飯田になるかと」 「ほう、伊那路を初手から戦って進まねばならぬと思うていた故、有難い。奥川殿は岩村城を補給基地に、飯田経由で天竜川沿いに北上し、駒ヶ根の麓にて陣を張り、伊那と高遠に備えよと申されておられるが」 「上策と存じます。織田島はこのまま木曽山脈を迂回して塩尻経由で辰野を目指します。辰野城、諏訪城の攻略は、こちらにお任せくださりませ」 「承知しました。高遠は何としても落とさねばならぬの」 「ええ。仁科克信を落とせれば、高田の兵力は半分以下となりましょう。木曽路を攻略して抑えてしまわねば、あちらに再起の暇を与えることとなります」  で、と宗兵衛が不意に押し黙った。周りを確かめるように目を配ると、宗冬に顔を近づけた。葛が例の如く全身の毛を逆立てる猫のように警戒の気を発している。 「奥川様をそこまで信頼して宜しいのでしょうか」 「どういう意味か」 「奥川様は、岩村に入られたら後の事を全て貴方にお任せすると申され、軍議一切は宗冬様と咨るようお命じになりました。或いは、捨て駒ではないかと」 「ご冗談を」 「冗談ではございません。木曽路を北上する途次で長野勢との小競り合いはありましょうが、高遠勢との戦いはおそらく雌雄を決する苛烈なものとなりましょう。そこへ御大将が姿を見せぬなど、考えられませぬ」  確かに、束の間動きを止めた宗冬だが、迷いを振り切るようにフッと息を思い切り吐き出した。 「将康様は戦がお嫌いです。あの方が戦うのは、ひたすら戦のない世を作るためなのです。そのお手伝いができるなら、私は捨て駒でも構いません」 「宗冬殿」 「それほどに、将康様には御恩があります。それに……早く戦を終わらせて、妻の元に帰りたいのです」  清々しい表情で臆面もなく妻を恋しがる宗冬に、宗兵衛も笑顔で応じた。 「あなたなら、きっと……そうしましょう。とっとと終わらせて、私も妻と子供の元に帰りとうござる」  およそ武将らしからぬ事を平気で口にする二人に、葛が思わず呆れた声を出した。 「お二人とも、ここ、陣中ですよ」  初めて葛の声を聞いた宗兵衛が驚いた顔で振り向いたが、面頬を外して顔を見せると更に腰を抜かしたようにその場に崩れた。 「宗冬様は、観音様を帯同しておられたか」  手を合わせようとする宗兵衛を笑って押し留め、先ほど申した私の姉です、と宗冬が葛を紹介したが、その武将姿と美貌と甘やかな男声に、何者かを飲み込めず、全てが混同しているようであった。 「わ、我はどうなっておるのだ」  三人が和気藹々と話していると、すっかり存在を忘れ去られていた宗良が叫んだ。 「早う我を父の元に連れて行け」 「あ、そのことは一切お館様から仰せつかってはおりませぬ」 「な、なんじゃと! 」  悲鳴を上げる宗良を一顧だにせず、宗兵衛は宗冬と葛に辞儀をして立ち去った。 「な、何をしに参ったのだ」  宗冬が、哀れな弟の腰刀を挿し直してやった。 「私と共に参れ。軍功を上げたら、父もお怒りを解いてくださるだろう。かく言う私とて、織田島の陣に加われとは、ついぞ言われなかった」  しかし、そう言う宗冬の顔に寂しさや悲しさは微塵もない。むしろ将康の元で戦ができる事を楽しみにしているかのような、期待感に満ち溢れている。 「兄の風下には立たぬ! 」  そう金切り声を上げ、宗良は陣幕の外に駆け出ていった。 「哀れな……それより、紘は無事に着いたか」 「ご安心を。藤森の里で大切に預かっております。飯田城の縄張りを調べ終えたら碤三が戻って参りましょう。様子をお尋ねください」 「亭主をこき使って済まぬな、葛」 「て、亭主とは……」 「今更隠しても遅いよ。だって私には厳しいのに、碤三にはすごく可愛い顔を見せる」  紘と契り、そうした人との繋がり方を知った故か、このところ宗冬はどんどん心が大人びていくように思われた。最早隠すことではないと、葛は口元を綻ばせて頷いた。 「だらしのない事ですね……ええ、碤三は亭主で、私は幸せ者の妻でございます」 「それで良い。葛が幸せなら、私はとても嬉しい。ああ、故に観音様に見えたのだな。とにかく鎧を着ていても婀娜すぎるから、戦陣で面頬は取らない方が良いよ」  頬を赤らめる葛に、宗冬は子供がはしゃぐように抱きつき、そして祝福をした。
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