無残

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       無残

 岩村城では天守に軍備が全て並べられ、決して叛意はせぬとの強い意思表示で奥川軍に明け渡された。城主の遠山信方(のぶかた)は改めて先触れとして伊那街道の先導役となって奥川軍に参陣することとなった。  将康、宗冬、そして喜井谷の直獅郎の養子となり後継として参陣した喜井政虎(きいまさとら)らが、それぞれ懐刀となる家臣を連れて、本丸の大広間に揃った。 「これより先は大軍では動きが鈍くなり申す。長野勢は木曽義仲の時代以来、馬での山戦に長けておる故、ぞろぞろと歩兵が街道をふさぐようなことでは却って危険です」  地図を指し示しながら、信方が山城の主人らしく見解を述べた。元々は三河と縁のある一族であった。恵那近郊が高田の所領となってからはその家中に従ってはいたが、名門意識の強い高田家中にあっては常に遠山家は外様であり、関係性は冷え切っていた。将康は密かに奥川家中で遠山家と祖を同じくする遠山影方(かげかた)に命じて誼を通じていた。 「影方がのう、その方に会いたがっておったが、何分年でな、岡崎の留守居に置いて参ったのじゃ」 「大叔父上はまだまだご壮健の由、槍を振るって城を守っているお姿が眼に浮かぶようでござります。お館様のご厚情、かたじけのうござる」  清潔感のある若武者だと宗冬が感心しているところへ、信方の妻が腰元たちに膳を持たせて入ってきた。 「これ、軍議の最中ぞ」 「申し訳もございませぬ。しかしながら長野勢は奇襲が得意、いつ何時なりと襲ってくるかは解りませぬ故、今のうちにと思い……」  夫の言うことに一応は謝りつつも、はっきりと理由を述べる妻の立ち姿は何とも凛々しい。皆の視線を一身に集めるだけ集めた妻は、にっこりと微笑んだ。 「山奥でございます故、何もございませぬが」  膳には握り飯と香の物、雉の入った汁物が並んでいた。決して豪華ではないが、激戦の前の食事としては上々であった。  女達が各々武将達の前に膳を並べていく。その最後尾に、いつの間にか変じたか、葛が腰元姿で何食わぬ顔で侍っていた。それもわざと美貌を損なうような酷い化粧をし、肉襦袢でふくよかになっていた。 「申し遅れました。奥川様、某の妻の希江(きえ)にございます。三河の出で、遠山の縁続きの者にございます」 「左様か、どうりでな。三河の女子は覚悟が違う」 「跳ねっ返りでお恥かしゅうござる」  満更でもない様子で希江を紹介した信方が頭をかいた。希江はそんな夫を自慢げに見つめ、将康の椀に白湯を注いだ。  宗冬の元には醜女の葛が膳を運び、周りに知られぬよう宗冬に向けて唇を動かした。 「殿、その白湯、私が改めます」  碗を口に近付けた将康の元に駆け寄り、宗冬がその碗を取り上げた。 「無礼だぞ、控えよ」 「このような時でございます、敵の間者が忍んでいるとも限りませぬ」 「奥川殿、どうぞ織田島殿のお気の済むように。某は一向に構いませぬ」 「御免」  宗冬が、刀の鍔から三条橋家の家紋の入った銀の笄を取り出した。その刃先を碗に浸すと、間も無く刃先が黒く変色をした。 「これはいかなることか、信方」  気色ばむ家臣達を抑え、将康が慄く信方に問い詰めた。首を何度も振りつつ、信方は何も知らないと答えるのみである。 「奥方様、長野と通じておられるか」  宗冬の指摘に、しかしながら希江は平然と微笑んだまま座していた。 「残念ながら、長野の奇襲はござらぬ、希江殿」  醜女姿のまま刀を抜いた葛が音もなく近寄り、希江の首筋に刃先を向けた。 「城の裏手に隠れていた長野の兵は、我が藤森衆と石川殿の兵とで駆逐済みだ」 「希江、いかなることか、答えよ! 」  気も狂わんばかりに叫ぶ夫に、希江は憎悪すら感じさせる目を向けた。 「こんな田舎にやっとの想いで嫁いで見れば、周りは敵ばかり。産んだ子は次々に人質に取られ、今もまた、漸く手元で育てていた姫を攫われ……貴方の目は一度として家の中に向いたことはなかったのじゃ。三河に戻れるとばかりに浮かれ、子等の行く末には目もくれぬ。岩村に奥川殿が入られた時、一郎も三郎も、福島の城で殺されておる。姫も……今頃は、あ、ああ」  葛の切っ先が鈍った。宗冬を他家に取られるあの折の芙由子の姿が、希江と重なった。 「希江殿、姫が長野方に囚われているのか」  宗冬が代わりに希江の肩をしっかりと掴んで問うた。 「将康を殺し、長野の兵を手引きせよと。事がうまく運べば、姫は無事に返すと」  信方が堪らずに希江を蹴り飛ばした。 「愚か者が! あの残酷な長野資清(すけきよ)めがそんな約定を守ったりするものか。子等の命と引き換えにしても、奥川殿に、三河に与しなくては、それこそ領内の子供達を守る事ができんのだ。いつまでも蹂躙され続け、殺され続け、座して滅ぶを待つわけにはいかぬのだ。あれだけ話し合うたではないか」 「一郎と三郎が、あまりにも不憫にございます。きっと我らを呪っておる事でしょう」  葛の背後に、藤森の忍が伝令に近付いた。耳打ちされた言葉に、葛はがくりと項垂れ、次なる瞬間、拳を床に叩きつけた。 「構わぬ、葛よ、申せ」  宗冬に促されるまま、葛が、信方の幼い娘の骸が城の外堀に投げ込まれていることを重々しげに告げた。  大広間に、信方夫妻の咽ぶ声だけがいつまでも響いた。
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