妻恋

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       妻恋

  「酷いことよ」  岩村城の櫓から、宗冬は山並みを見渡しながら呟いた。隣にいる碤三は、雑兵達に忙しく指示を与え続けていた。 「んなこと言ってる場合か。戦は遊びじゃねぇ、勝つために出来る事は何でもやる。何でもやった奴が生き残る。地獄に落ちようがどうなろうが、死んだ後のことなんか知ったこっちゃねえんだ。そんな神仏なんざ屁とも思っちゃいねえ奴らと、おまえは戦うんだぜ」 「そうであったな……紘はどうしていた」 「元気だぜ。あいつはよ、すっかり里の女達と仲良くなって、馬の世話なんざしててめぇのやるべき事をあっという間に見つけちまった。大した奴だ」 「ありがとう、無事に送ってくれて」 「水臭ぇよ。それより、奥方は亭主に斬られたってな」 「ああ。跡目を甥御に託し、遠山殿も腹を切った。なぁ碤三、おまえは妻を斬れるか」  碤三はふと押し黙り、決然とした目で宗冬を見据えた。 「つまりは、葛を、だな」 「ああ。私なら、紘を、だ」 「まず斬れねぇよ、あんな強ぇ奴……いや、俺は斬らない、何があろうとな」 「私もだ。やっと私を一人の男として見てくれた紘を、絶対に死なせたりはしない」  バシッと、碤三が宗冬の背を叩いた。石川一貴や他の三河衆に見られたら大目玉を食らうところである。 「いい男になりやがったぜ、全く。いいか、こんな誰の為だか分からねぇような戦なんかで死ぬんじゃねえぞ」 「わかっている。碤三もな。葛を泣かせたら私が許さないぞ」 「へえへえ、若君様よ。どちらかといえば泣かされるのは俺だがな」 「真面目に言っているのだ。浮気など論外だぞ」  へへっとおどけながら、碤三は階下から呼ばれて駆け下りていった。  橙色に見事に色づいた四方の山々。こんな美しい景色の中でも、平然と人間は血を流す。 「無くならぬのかの、戦は」  一人呟き、宗冬も名を呼ばれて駆け下りていった。  岩村城内は、遠山夫婦の件以来戦支度に追われていた。物々しい警護兵が外堀と内堀の合間を行き来し、長野方の伏兵や忍の炙り出しに躍起になっていた。  碤三もいよいよ宗冬の手下として出陣すべく、馬小屋の蒼風の元で入念に装備を確かめていた。その背中に、足音もなくひらりと屋根から飛び降りた者がいる。あと数歩で間合いに入るというその時、碤三がくるりと振り向いてその人物をしっかり抱きとめた。 「久しぶりだな」 「戻っているなら言えば良いのに、意地悪」  腕の中に収まって気持ち良さそうに鼻を鳴らす葛の髪を、碤三は何度となく撫でた。可憐な小袖姿で髪に香を焚き込めているあたり、忍としては落第であるが、久々に夫に会える妻が心を浮き立たせて支度をしたのかと思えば、これ程愛しい香りはない。 「どこのお姫様かと思ったぜ」 「嘘つけ、年増がめかしこんで、って思ったろ」  腕の中から上目遣いに睨む葛の髪に、碤三は顔を埋めた。 「……俺の好きな香りだ」 「こんな時にと、呆れないでおくれ。自分でも、恥ずかしいくらい……」  葛の髪の香りを、蒼風も心地よさそうに吸い込んでいた。貪るように唇を重ねる二人のそばで、その物音を隠すように蒼風が干し草を足で弄んで音を立てた。  小洒落た小袖を惜しげも無く寛げて、その奥の白く滑らかな肌に碤三が指先を滑らせると、葛が切なげに吐息を漏らした。 「こんな戦働きの中でも、手入れを怠っていないのだな」 「だって、荒れた肌など、夫に見せられるものか」 「可愛い事言いやがって」  とはいえ、その滑らかな肌にも幾筋も傷跡が走っている。稲妻のような刀傷の跡、火傷をして爛れた跡、矢尻が肌を抉ったであろう星型の跡……一つ一つに丁寧に口付けを捧げ、碤三はその凄まじい半生に己の半生を重ねた。 「もう、こんな傷はつけさせねぇから」 「ああ。同じことを、私もお前に誓う」  碤三を迎え入れながら、葛も碤三の逞しく日焼けした傷跡だらけの胸板に歯を立てた。 「おいおい、傷をつけないって言ったんじゃねえのか」 「だって……碤三、えい……」  碤三の肩に爪を食い込ませたまま、葛が白い首を仰け反らせ、大きく喘いだ。  ひとしきり互いを求め合って想いを遂げた後、忍の戦支度に身を替えながらもまだ名残惜しいとばかりに唇を啄ばんでいると、出陣を知らせる太鼓の音が響いてきた。 「んもう、憎らしい」  婀娜な名残の言葉を最後に、葛は勇ましい武将の姿で出ていった。 「嵐のような奥方様だな、全く」  笑いながら、碤三は馬揃えに備えて馬の柵を取り外した。  蒼風は既にどこへ行くべきか分かっている様子で、勝手に馬小屋から出ていってしまった。慌てて追いかけるべく駆け出た碤三の足元に、矢が突き刺さった。 「おいでなすったか」  葛はもう宗冬の側に着いたか……そう逡巡した途端、葛が蒼風の背に乗って抜き身の刀を振りながら碤三の元に駆けてきた。 「何やってんだ、てめぇは! 」  思わずそう怒鳴る碤三の横で、葛が三本、四本と、降り注ぐ矢を叩き落としていく。 「若が先鋒として出陣されることとなった。蒼風(そうふう)を迎えにきてみれば、こんなところまで敵に入り込まれているとは」 「ここは水晶山に抜ける獣道と通じている。大坪兵がやられたな」 「大坪彦十(おおつぼひこじゅう)殿の兵か。それほど柔とは思えんぞ」  山沿いに木曽忍や木曽福島兵が入り込んでくることを警戒し、遠山方の足軽に加え、将康の父の代からの忠臣・猛将で知られる大坪彦十の兵を置いて固めていたはずだった。 「腕に自信があると、兎角油断も生じやすいということか」  葛が碤三に手を差し出して蒼風の背に乗るよう促すと、碤三はその手を払った。 「ここは俺が食い止める、早く行け」 「しかし」 「亭主を信じろよ。蒼風に二人は重すぎる、急いで小僧にそいつを届けろ」  わかった、と返事をした葛が馬首を巡らせようと手綱を引いた時、蒼風の足元に矢が刺さった。勘の良い蒼風が避けた拍子に馬体が棹立ちになり、葛が不意を突かれて地面に振り落とされた。咄嗟に碤三が飛び上がって葛を抱きとめ、宙を回転しながら地面に落下した。まだ体勢を立て直せない葛の元に容赦なく矢が降り注ぐ。刀を抜く間のない碤三が、地面に転がる葛の体の前に己を晒した時、その右目に矢が突き刺さった。 「碤三! 」 「擦り傷だ、行け! 」 「いやだ! 」  ドクドクと右目から血を流す碤三の体を馬小屋に引き摺り込み、葛は素早く血止めをした。漸く、騒ぎを聞きつけた物見の兵が駆けつけ、矢を放つ伏兵と戦闘が始まった。  碤三を横たえ、葛は化膿止めに持ち歩いている薬草を傷口に当てようとした。だが、矢を抜こうにも、痛みを思うと決意が鈍るのか、握りしめる葛の手が震えた。 「かまわねぇよ、やれ、早く」  震える白い手に、碤三が血まみれの手を重ねた。そして葛の手ごと矢を握りしめ、一気に引き抜いた。絶叫と共に血が噴き出すが、葛が嗚咽を漏らしながら直ぐに薬草を傷口に詰めて布をきつく巻いた。 「お、おまえの顔じゃなくて、良かった」 「すまん、私のせいだ、私のせいだ……」  ひとしきり治療を終えた葛が、碤三の胸に顔を突っ伏して詫びた。 「恋女房を守るのは亭主の役目だ、当たり前ぇなんだよ。俺はいい、早く宗冬の元へ行け」 「でも」 「おまえはこういう時、どうも面倒臭ぇ奴になりやがる。嫌いになっていいのかえ」 「嫌だッ」  血まみれの手で、碤三が愛しげに葛の頰を撫でた。葛の涙で、その手が濡れた。 「行け、いつものおまえに戻れ、俺は死なねぇ……第一、まだ抱き足りねぇよ」  碤三が泣きじゃくる葛の手を強く握りしめ、そして振り払った。 「行け! 」  迷いを断ち切るような咆哮を上げ、葛は弾かれたように飛び出していった。
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