飯田城攻略

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      飯田城攻略

 南下した長野勢が岩村城に攻めかかる頃、宗冬らは飯田城攻めに取り掛かっていた。岩村城に向かったのは城主長野資清の弟•佐武(すけたけ)である。藤森衆らの働きで木曽忍の伝令が途絶え、資清は恵那山南麓を進む宗冬らの動きを捉えることができなかった。夜が明けて、目の前の松尾城と鈴岡城に奥川の旗印が棚引いているのを見た資清は、長野佐忠の自刃を知らせてきた家臣を腹立ち紛れに斬り捨てた。 「おのれ、木曽忍は何をしておるか」 「それが……外堀に、木曽忍の骸が打ち捨てられている由にございます」  斬られた家臣の遺体を盾にするように身を縮めながら、別の家臣が恐る恐る報告した。 「おのれぇ、希江は、信方は如何した、岩村で将康の首を取れと言うたではないか! 」  資清の金切り声に、妻子も皆耳を塞いで身を縮ませていた。並んで座しているのは正室に五人の側室、彼女達が産んだ七男二女。決して目が合わぬようにと顔を伏せていた。  松尾城長野佐忠(ながのすけただ)の遠縁である側室・(みね)の方には、既に宗冬側からの接触があった。彼女は側室の中で最も年若く、半ば人質としてこの城に連れてこられていた。そしてまだ十九でありながら既に七男峯丸(みねまる)と次女天音(あまね)姫を産んでいる。この二人の子の助命と引き換えに、二の丸から城下へ繋がる抜け道の鍵を開けて手引きするよう、因果を含められていた。 「必ず、必ず子らを助けてくれるのじゃな」  昨晩、音もなく寝所に忍び込んできた忍に、峯は取り縋るように懇願した。 「お声が大きゅうござる」  身を屈めて忍が顔を近づけ、覆面を下げた。整った顔立ちで微笑まれ、峯は絆されるように身を預けた。乱暴な資清の閨しか知らぬ峯は、名も知らぬ忍に優しく抱き締められ、唇を吸われた。舌が歯の間から滑り込んでとろりと何か甘い汁を流し込まれた途端、体の芯が震え、初めて女となれたような悦びを覚えた。 「お子らと生き延びて、女としての幸せをもう一度味わいなされ」  もう一度、と何度もせがむ峯の体を離し、忍は女を蕩けさせるに十分な微笑みを見せた。  先夜以来、まだ体の奥が疼くままである峯は、資清に悟られまいと必死に平静を装いつつも、頭の中はあの端正な忍の愛撫で埋め尽くされていた。  昼寝をさせねばと、2歳の娘を抱き上げ4歳の息子の手を引き、怒り狂う資清から逃げるように寝所へ下がった峯は、すぐに手文庫から膳所の炭置き部屋の扉の鍵を取り出した。  台所では女達が炊き出しに大わらわである。松尾城と睨み合うこの飯田城内では、撃って出るか籠城かで連日意見が割れていたが、弟・佐武との伝令の手段を断たれた資清が、今朝になって篭城を決めたのであった。数日持ちこたえれば、高遠から仁科勢の援軍が来るとの目算があった。高遠からは頻繁に諏訪忍が物見にやってきている。木曽忍が使えずとも、伝達は可能な筈であった。  長野佐忠が自刃する直前に明かした抜け道は、小柄な女がやっと通れるかどうかという、漆黒の闇に包まれた細い道であった。この城が築城された当初から、城主の緊急時の逃げ道として限られた者だけに存在が知らされていた。峯は長野氏縁者であり、松尾城との隠密裏な往来の為に鍵を任され、峯から佐忠にその存在が伝わっていたのであった。    城下の古寺・普門院の境内に、町の民を装った男女が、思い思いに荷を担いで集まってきた。谷川を挟んだ南方向を見上げれば、天然の崖岸にそびえ立つ石垣の上に、二の丸、本丸、山伏丸と曲輪が並んで見える。 「頭、揃いました」  頭と呼ばれたのは、農夫の姿をした葛である。昼間ではその美貌は目立ちすぎるため、顔じゅうに泥を塗って人相が解らなくなっているが、その目鼻立ちの造作はやはり隠しようがない。そして、葛に声をかけた町衆姿の男もまた、涼しげな目元をした端正な顔立ちである。その顔は正に、先夜峯の方を籠絡した男のものであった。 「理三郎(りさぶろう)、仕損じはあるまいな」 「嫌ですよ、誰に言ってるんです」  生意気に鼻を鳴らす理三郎をひと睨みし、葛は集まっている一党に告げた。 「峯の方とお子は城外に出す。仕掛けが終われば長居は無用、攻撃が始まる前に撤収しろ」  短く目顔で頷き、境内の端の桜の下にある枯れ井戸の中へと、忍達は次々に滑り込んでいった。手入れのされていない枝垂れた桜の枝から枯れた葉がひらひらと落ち、井戸の縁を埋めている。春なればきっと、と葛は桜色に染まる姿を夢想した。 「頭、小頭といちゃつくようになってから、すっかり女になっちまいましたね」  端正な顔立ちを下品に歪め、理三郎が皮肉を言った。 「俺は男を抱く趣味は無いが、あんたなら味わってみたいと思うね。あんな小便臭い側室なんざどっかで殺して捨ててさぁ、ねぇ頭」  理三郎が葛の華奢な背中に手を伸ばし、無造作に纏められた髪に触った。 「佐忠殿が、命と引き換えに秘密を明かして助命を頼まれた姫御だ。若が侍として承った約束を反故にすれば、この地の恨みは全て若に向けられる」 「へえん、今までの頭なら用のない奴は斬り捨てていた筈なのに」  フンと鳴らしたその鼻先に、葛は振り向き様に音もなくスラリと抜いた短刀の切っ先を貼り付けた。 「私が斬ってきたのは敵、或いは人を利用し騙し、用がないと知るや遠慮無用に斬り捨てるような、そんな酷薄な人非人ばかりであったが」 「わ、わか、わかりましたって! そんなおっかない顔やめてくださいよ」 「本丸館の膳所で落ち合ったら、無事に松尾城へお送りせよ、良いな」 「約束しますよ。ちゃんと女の極楽を味合わせてから送ってやりますって」  尻餅をついたままの理三郎を忌々しげに見下ろし、顎で行くように促すと、その迫力に気圧されたように理三郎が井戸に飛び込んでいった。  彼も市蔵が残した遺産の一つである。薬を使って女を籠絡し内通させ、用済みとなるや淫売宿に叩き売ったり殺したりする。理三郎はことに酷薄であり、決して手元においておきたい男ではない。だが、仕事は確実で今までに仕損じたことはなかった。  クズめ、そう呟いてから、葛は己自身に向かって心の中で繰り返した。  クズを使う己もまたクズだ、と。  本戸勝重(ほんどかつしげ)軍は谷川沿いに歩兵を集め、合図を待っていた。宗冬は宗良を連れて城の正門前まで押し出していた。細く急な坂道の果てに虎口があり、まともに駆け登れば矢弾の犠牲となるばかりである。松尾城からここまでに至る小競り合いで歩兵にも大分犠牲が出ていた。  本戸軍とは逆の南面に流れている松川沿いには、阿木城を制圧した石川一貴が駆けつけ、布陣していた。  日照時間が加速度的に短くなっている。冬の近い事を感じながら、宗冬は焦りそうになる心を抑え、じっと采配を握りしめていた。いつの間にか、自分がこの飯田攻めの大将になっていることも、実感すればするほど足に震えが走る。 「火の手です、物見櫓、二の丸! 」  高々と組まれていた物見櫓が、炎を巻き上げながらどうっと倒れた。城兵たちが敵襲に備えて駆け回る様子を聞きながら、急かす配下をを手で押しとどめていた。 「まだだ」  まだだ……と、二の丸に至る正門が吹き飛んだ。喜井政虎から預かった火薬を仕掛けたのだろう。物の見事に門が吹き飛び、虎口に潜んでいた射手が身の隠れ場所を失った。 「鉄砲隊! 」  宗冬の合図に、政虎が鉄砲隊の前後を歩兵で守りつつ一気に坂道を駆け上り、現れた城兵を斬り捨てながら鉄砲隊を射程に整列させた。城壁の射手が態勢を取り戻すより早く、訓練され尽くした鉄砲隊が発砲した。柵もろとも射手を打ち払った瞬間に宗冬が騎馬で駆け上がり、撃ち終えた鉄砲隊を庇うように突進した。 「かかれ! 」  銃声を合図に、本戸勢が水嵩が減っている谷川を渡り、崖岸を回り込んで二の丸より幾分標高が低くなっている本丸の横腹を目指した。宗冬の指示で装備した、先端を尖らせた杖を地面に差しながら、兵達は確実に土塁を登っていく。山に長けた者達が先に登り、曲輪に近づいたところで柵に向かって鉤縄を投げかけた。数十本の縄が斜面に波を打つと、後から登ってきた者達がそれに取り縋り、瞬く間に本戸軍は土塁を登りきった。  正門からの攻撃に城兵が集中し、僅かな物見兵だけが柵を守っていたが、勇猛で知られる本戸軍の敵ではなく、殆ど死傷者のないままに柵を越えて本丸に雪崩れ込んだ。  その間、藤森衆は峯の方と子供二人を場外へ逃がし、無事に撤収していた。    同じ頃には、岩村攻めに南下していた長野資清の弟・佐武の軍もほぼ殲滅されていた。  岩村城を出て得意の野戦に持ち込んだ将康は、ほんの一刻あまりで勝利を決した。  宗冬と宗良、本戸勝重と、残党を殲滅して城下の乱取りを防ぐべく統制を図っていた石川一貴も駆けつけ、無残に焼け落ちた本丸館の庭先で、長野資清の最期を検分していた。 「惨たらしく子等を殺した罪、あの世で遠山殿と希江殿に詫びよ」  宗冬の言葉に不適な笑みを返し、長野資清は自刃した。  飯田城は、夜を待たずして落城したのであった。  
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