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坂中半右衛門
仕置きを一貴に任せ、宗冬ら奥川軍は駒ヶ根を越えて一気に伊那の春日城まで進軍した。
春日城が落ちれば、ここから高遠までは一本道。
それぞれ支城には伊那部氏、仁科氏の一門が徹底抗戦の構えで待ち構えていた。策なく進めば両側、前後から挟撃を受けて身動きが取れなくなる。
宗冬軍には将康から援軍として新たに五千の軍勢が加わり、織田島からも坂中半右衛門が山に精通した兵を連れて合流していた。
大軍に膨れ上がった奥川・織田島軍を前に、春日城はあっけなく落ちた。城主伊那部茂義は主だった家臣を連れて高遠へと落ち延びた。打ち捨てられた家族らは、宗冬らが入場する前に殆どが自刃して果てていた。
「幼い子供まで……何故、妻子を置いて逃げたのか」
本丸奥御殿の仏間で冷たく折り重なる親子の骸に、宗冬は長い間手を合わせていた。
「丁重に弔って差し上げよ」
奥川の兵が伊那部茂義の正室と思われる女の遺体を持ち上げた時であった。
「離れよ! 」
飛び込んできた葛が怒号をあげながら宗冬を部屋の外に押し出した。素早く襖を閉めると、その隙間から白い靄が漏れてきた。
「毒です、ここから退避を。別棟の政務殿に陣所をお移しください」
部屋の中から、遺体を持ち上げた兵が悶絶するうめき声が聞こえてきた。救おうと手を伸ばす宗冬の手を引き寄せ、葛は本丸から走り出た。
「信濃忍の術です。若達が検分に入城される頃を見計らい、毒の丸薬を口に含んで自刃致すのです。やがて時間が経つと毒が胃の腑を溶かし、気化して口や鼻から漏れ出るのです」
「では、見聞に訪れるであろう我らを殺すべく、奥方達は毒を含んで自刃したというのか」
「間違いございませぬ。とても苦く舌の上が焼けるようだと申します故、相当の覚悟がなくてはできぬことにございます」
「酷い」
本丸内の別棟に陣所が移され、宗冬は呆然と床几に腰を下ろしていた。
場内は至る所に家臣やその家族らの遺体が転がっていた。あれほど、身の安全を約定すると申し渡したが、伊那部茂義は敵の手に落ちることを許さぬまま城を後にしたというのだろうか。
葛に背を撫でられながら項垂れているところに、相変わらずの飄々とした様子で坂中半右衛門が陣所に入ってきた。
「ご気分がお悪いので」
わかっているくせに、と睨む葛に、怯むことなくニッコリ笑いかけ、半右衛門は床几を宗冬の前に置いて向かい合うように座った。
「織田島の殿は、全てを薙ぎ倒すかのように城という城を焼き尽くし城内にいる者達を悉く殺しながら塩尻まで達しております。龍野城を落とすのも時間の問題でしょう。だがあなたは、城という城を活かすことを選びながら、城の中の者を一人でも救おうとなされた。甘いといえば確かに甘いが、僅か十六の大将にしては上々の采配でしょう。ただ、あなたの情けをそのまま受け取る者ばかりではない。例えば、先程の奥方らにしてみれば、あなたは城を脅かし夫を追い出した鬼か蛇である。敗将の妻であるだけにどんな辱めを受けるとも限らない。恐ろしい敵将が入城してきたのなら、毒牙にかかる前にせめてこの身を使って一矢報いて死んでいきたい……それが、戦というものです」
淡々と、何の感情も挟まずに説いていく半右衛門の言葉を、宗冬は黙って聞いていた。
「若は全て分かっておられるのです」
「然様ですね。ああ、あなたの事は明智宗兵衛から聞いております。恐ろしく美しい近習が宗冬様のそばにいると。一目で貴方のことだと分かった。男を骨抜きにして、男の生き血を啜る魔性の男、というところかな。戦さ場には婀娜すぎて、目の遣り場に困る」
「埒も無い。若はお疲れにございます、軍師という触れで参陣なさったのなら、もそっとテキパキと仕置きをなされませ」
葛の遠慮のない言葉に、半右衛門は戯けたように肩をすくめて見せた。
「これは手厳しい観音様じゃ。宗冬殿、ここは兵を一旦休めなくてはなりませぬ。城下から傀儡女など呼び寄せ、戦の憂さを晴らしてやりましょう。宜しいか」
すると、意外にしっかりとした面持ちで、宗冬が顔を上げた。
「今は仁科方からの忍に調略を仕掛けられるのが最も怖い。慰労なれば、傀儡女などは外からは入れず、まずは酒と食事で腹を満たしてやって欲しい」
「それだけでは足りませぬぞ。血の昂りを知ったものはとかく女を欲しがります」
困ったような顔で、宗冬は葛に助けを求めた。
「仕方ありませぬ。藤森衆が出入りの女達の素性を確かめることといたしましょう」
「では女達は葛に任せよう。半右衛門殿、後の仕置きを頼みます」
「承りました」
あれ程颯爽と馬を駆りながらも兜を取った姿は可憐ですらある宗冬と、黒装束に黒覆面と全身を黒で覆いながらも妖艶さを隠しきれぬ葛、その不思議な主従が肩を寄せ合いながら寝所に戻っていく後ろ姿を、半右衛門はのんびりと眺めていた。
寝所に入ってすぐ、宗冬は板の間に腰を下ろし、ぐったりと横たわってしまった。
葛はすぐに黒装束を解いて腰元の姿となり、長持ちから真新しい下帯を取り出した。
「さ、お召し替えを」
「解っておったのか」
「生まれる前からお世話申し上げているのですよ。さ、起きられますか」
鉛のように重々しい体をやっとの思いで起こし、鎧を説いて小袖姿となると、宗冬が解き放たれたような大きなため息をついた。さらに袴を取り外し、鮮血に染まる下帯を取り外した。
「お湯を貰ってまいります故、ひとまずこれでお待ちくださりませ」
手早く下帯と袴を取り替え、血で汚れた物は自分が着ていた黒小袖に包んだ。
「湯をもらうまでに焼き捨てておきます故、ご安心を」
「すまぬ、葛。何故こんなときにまで……」
「出物腫れ物所構わずと申します」
「あまり笑えぬな」
といいながら、やっと宗冬が微かな笑みを見せた。姉の顔をして、葛が微笑み返した。
「こんな世話、男姿の葛には頼めぬ。故にわざわざ女の姿に成ってくれたのであろう」
「いいえ、この方が何かと私も動きやすいのです。さ、少しお静かに休まれませ」
大将の寝所とはいえ戦の最中である。部屋の奥に仕舞われていた粗末な寝具を引っ張り出し、二枚重ねにして宗冬を横たえた。おそらく伊那部茂義の宿直か近習か、然程身分の高くない家臣のものであろう。
「情けない限りじゃ。だから父上は、私を厭うたのであろうな」
体を横向きに、葛に背中を向けるようにして宗冬が呟いた。
「仁科克信との合戦には、新しい鎧直垂をお召しになられませ。大将として堂々たるお姿でお出張り為されるが宜しい。御出陣までには、収まりましょう」
宗冬の肩が微かに震えている。戦の酷さと己の体の禍々しさ、どれ程の負の感情が宗冬の心を覆っていることか。慰めるすべもなく、葛は汚れ物を手に寝所を後にした。
汚れ物が燃え尽きた頃、土を被せる葛の腰に背後から手を回してくるものがあった。
「離せ」
「城兵達のご褒美に、選りすぐりの女達を連れてきたんですよ。峯の方も言いつけ通り、ちゃぁんと松尾に届けてきたんですからぁ、ご褒美をくださいよぅ」
理三郎が鼻にかかったような猫撫で声を出し、葛の耳元に息を吹きかけた。
「ほら、兵達はもう夢中ですぜ、女に。俺たちも少し、憂さを晴らしましょうよ」
細い腰を絞るように両手を絡めてくる理三郎は、大胆に前合わせから手を滑り込ませ、滑らかな葛の胸を撫で回した。
「へえ、本当に男なんですね。でも女の肌より木目が細かい。小頭があんなことになって男日照りでしょ、こんな細い柳腰を色っぽくくねらせてさ、ねぇ頭」
そっと耳朶を甘噛みされても、葛は顔色ひとつ変えずにされるがままになっていた。それを葛が応じたのだと調子に乗った理三郎は、とうとう裾を割って太腿にまで手を伸ばしてきた。
「そろそろ湯が沸いた」
と、唐突に振り向いた葛が理三郎に強烈な頭突きを食らわし、その股間に短刀を突きつけていた。
「峯の方がまだ初心だからよかったものの……よくそれで女殺しを名乗っていたものだ」
「何ですって、どんな女も俺の手管に羽化登仙と溺れたんですぜ」
「所詮は薬頼みか。碤三なら、指先一つで私を羽化登仙とやらへ……なぁ理三郎」
ふと凄みのある色気を湛えて顔を近づけた葛が、紅に染まる唇を舐め回しながら妖しく微笑んだ。ぞくりと背中に震えが走った時にはもう、理三郎の逸物が葛の手の中で弾けていた。情けない声を上げ、うっかり果ててしまった理三郎が股間を両手で覆いながら膝を折り曲げた。
「か、頭、俺に一体何を」
「羽化登仙」
ふっと甘い香りの吐息を吹きかけられ、理三郎は白目を剥いて引っ繰り返ってしまった。
「馬鹿め、修行が足りん」
転がる理三郎を足先で蹴飛ばし台所へ向かって大股で歩き出すと、目の前に半右衛門が立ちはだかった。
面倒な奴が次々と……思わず葛は舌打ちをした。
「こんな美女から舌打ちとは、聞きたくありませんね」
「急ぎます故、道をお開けくださいまし」
「まぁまぁ、そう怒らずに。貴方にひとつ頼みがあるのですが」
片眉を吊り上げて、葛が半右衛門を睨めつけた。
「ここから三峰川沿いに高遠へ向かうと、叶と黒河内という二つの城がありまして。いや、城というより館ですかね、吹けば飛びます。とはいえ、この二つは伊那部一族の分流の城でして、高遠攻略でまずは天神山、蟻塚、守屋山と、仁科一族の分城を潰していかねばならぬ時に、伊那部に横腹を突かれるのは心外でしてね。できれば伊那部茂義の首を取ってきてほしいのですよ」
「茂義は確かに黒河内の従兄春日盛義の元に逃げ込み、伊那部一族を結集している様子ですが、然程脅威とは思えませぬ」
「高遠攻めの前に小競り合いはしたくない。しかも、冬が近い」
「それは確かに」
「茂義は一族の要、奴一人の首さえ取れれば、あとは私が交渉で抑えることができます。宗冬殿にも数日休養が必要でしょう。その間に、何とか」
「大将に無断で動くわけにはいきませぬ」
では、と半右衛門の横を通り過ぎようとすると、存外に力強くその腕を掴まれた。
「私はお館様肝いりの軍師です、それも、ちょっと我儘を聞いていただける仲でして」
「はぁ」
「こういうことです」
半右衛門が葛の腰を撫で回し、力強く引き寄せた。指先で尾骨を擽られ、思わず葛がきゃっと短い声を上げ、身をよじった。
「あの女殺しよりは、貴方の体を堪能する術を知っていると思いますよ」
胸板を両手で押し戻すようにして、葛が漸く半右衛門から離れた。少し狼狽しながら髪を整え、背を丸めるようにして前合わせを固く閉じた。
「可愛いな。本気で貴方を欲しいと思えてきた」
「馬鹿な、私には……」
「負傷したご夫君でしょう。そんな一途なところも魅力的ですよ」
指先で葛の髪をさらりと靡かせて、半右衛門は笑いながら去って行った。
「何という日だ、全く」
立て続けに男が二人も襲ってくるとは。少し女姿を工夫しなくてはならないかと、葛は腹立たしげに裾を叩き、再び大股で台所へと歩き出したのであった。
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