匂う

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        匂う

 葛がその死を知ったのは、油井(ゆい)家の領地に入る直前の休息の地であった。宿の主人に因果を含め、馬での旅路に疲れた澪丸を暫し部屋にて横たえ、藤森の下忍に見張り命じ、葛は小袖に裁着袴という軽装で山地に分け入った。 「葛よ」  約束通りの場所で、葛は足を止めた。ケヤキの大木の陰には、葛より一回りは裕にあろうかという体つきの大男が待っていた。 「碤三(えいぞう)」  その男は藤森碤三(ふじもりえいぞう)。葛より幾らか年嵩ではあるが、戦乱でただ一人焼け出されたところを藤森市蔵に拾われ、共に修行に明け暮れた仲であった。特に葛が芙由子に付き従ってからというもの、城中での密かな稽古相手は、この男が務めていた。 「芙由子様、身罷ったぞ」  やはり、と葛は頷き、そっと手を合わせて回向をした。 「きっとそうではないかと」  別れ際の芙由子の表情には、確かに死の決意があった。弔いもできぬ事を、手を合わせたまま葛は心の中で詫びた。 「お前達を送り出してすぐ、懐剣で自害なされた。手の者によると、まるで眠っているかのような美しいお顔だったそうだ」  瞑目し、葛は芙由子の残像に改めて澪丸を守ると誓った。 「おいたわしい事だが、これで宗近は三条橋家の血筋でもある澪丸様を粗略には扱えぬ。御一命を捨てて、お子を守られたのだ」  男の声音で断言する葛がまとう女物の小袖の袂を、碤三が摘み上げた。 「良いのか、いつまでもこんな形で。油井家はちょっとした火薬庫だ、戦いにくいだろう。まぁ俺はその姿も好きだけどさ、どんな女より美しいし、愛想がないのが玉に瑕だが」 「ねぇ、紅が剥げちゃったかもぉ」  葛が唇を差し出して薬指でゆっくりとなぞってみせると、碤三がごくりと生唾を呑み込んだ。 「お、おまえ、油井家でその、襲われるぞ、いろんな意味で」 「ちゃんと女に見えるかな」 「ていうか、我慢できねぇ、今すぐ襲いたい」 「阿呆……これも、芙由子様が私に残して下された立派な武器だ」  無意識に、碤三の指先が葛の頰を撫でていた。月明かりの下ではよく見えぬが、微かに一筋濡れた跡があった。 「別れは済んだのか」 「元より予感はあった。お前の顔を見たときにはもう、別れは済ませていたよ」 「因果だな、おまえも」  抱きしめようとした碤三の腕の中からするりと抜け出し、葛は間合いを取った。 「暫くはこの形で通す。何かと便利だし、男共は何でも秘密を話してくれる」 「ああ、その似合わぬ男言葉も痺れるぜ。秘密どころか全て差し出してもいい……」  身じろぎもせぬままに、葛が碤三の頰めがけて礫を飛ばした。 「阿呆」 「まあまあ。しかしそうまでして、あのクソ公家の為に働く価値があるのかね。お頭も、大名同士の泥仕合に首をつっこむなと仰せだ」 「元を正せばお頭の、私の母への思慕から始まったことだ、何を今更……伝えてくれ、私はどこまでも澪丸様についていくと。母と、芙由子様との約定だと」  それだけ言い放つと、尚の反言を許さぬとばかりに葛は歩き出した。 「待てよ」  ひらりと、碤三がその行く手を塞ぎ、葛の(おとがい)に指をかけた。 「本当にいい女だよなぁ」 「その話は終わった」  碤三の腹に懐剣の(こじり)を打ち込もうとする前に、碤三はトンボを切って逃げた。十分に間を取ると、スラリと抜いた両刃刀を頭上に掲げ、碤三は不敵に笑った。 「ここんとこ暇だったからよ」 「勝手なことを」  面倒臭そうに舌打ちをし、葛は構わず踏みこみざまに懐剣を引き抜いて薙いだ。余裕げに交わした碤三の鼻っ柱めがけて小袖の袂から(つぶて)を見舞うと、碤三は楽しそうに笑い声をあげながらそれらを全て弾き飛ばした。 「あ……」  尚もからかおうと口を開いたまま、碤三は動きを止めた。既に背後に回っていた葛の切っ先がその太い首筋に食い込もうとしていたのである。 「遅いな。修行の手を抜いたか」 「わ、わかった、降参だ、降参」 「私は今、こんなおふざけをしている気分ではない」  ぐいと力を込めると、碤三の首の皮が微かに裂けた。 「澪丸様と私を、無事に多治見(たじみ)城まで送れ。確かにこの形で大立ち回りともいくまいからな。お頭にもそう伝えろ」 「入れ込みすぎだろ。お頭に叱られても知らねぇよ」 「抜け忍になっても、私は澪丸様を守る。芙由子様の御遺命に背く訳にはいかぬ」 「一応藤森衆の跡目候補なんだぜ、おまえも」  まだ懐剣を食い込ませたままの葛の手を、碤三が優しく握った。 「……聞かなかったことにしておこう、さっきの言葉は」 「へえ、私が女なら惚れてるよ、碤三」 「女じゃなくても、おまえなら大歓迎だ」 「馬鹿」  ふっと苦笑して懐剣を仕舞った葛は、そっと碤三の首筋に滲み出た鮮血を舐めた。 「お頼み申しましたよ、碤三様」  耳元で吐息交じりに女声で囁かれ、ピクリと体を震わせた碤三が振り向いた時、葛の姿はもはや消えていた。 「おっとぉ……」  葛の舌の感触を思い出しながら、碤三は首筋を撫でた。 「聞こえたな。俺たちはあいつを守るぜ。いや、俺が守る」  一斉に木々がざわめいた。多治見城までの街道を固める為に配下が散っていった気配を確かめ、碤三もゆるりと歩き出したのであった。   
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