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嫉妬
僅か二日ばかりで出血は収まり、宗冬は床上げをして城内を巡回した。付き添ったのは政虎と半右衛門である。宗冬より一つ年下の15歳である政虎は、農家で幼少期を過ごしただけあって屈託がなく、筒袖に軽衫と、まるで武将には見えない姿で、いつでも日焼けした顔を綻ばせていた。
「直に喜井谷の叔母から鉄砲と弾薬が届きます。南蛮からの船が入ったようですので、今までより沢山送ってくれるそうです」
「それは有難い。とはいえ高遠攻めまでは温存しておきたい。それより稲川の動きはどうか。まだ頼素殿が家内を収めるまでは時間がかかりそうであるが」
「ええ。とても高田に援軍を出すゆとりはなさそうです。せいぜい国境の守りを厚くするのが関の山。おかげで喜井谷はちょっかい出されることもなく、南蛮交易に精を出せるという寸法で」
「それは良かった。おそらく仁科克信は籠城はすまい。打って出て天神山城からの別働隊と挟撃をする腹だろう。何せこちらには逃げ場がない。故に、鉄砲隊で相手の出鼻を挫いておきたい。後で策を練りたいから陣所に来てくれないか」
「承知いたしました。いやぁ、叔母の言う通り、宗冬様は戦上手じゃ」
「おいおい、軍師殿の前で持ち上げてくれるな」
では、と政虎は屈託のない笑みで手を振り、喜井の仲間達の方へと駆けて行った。
「溌剌とした、良い若者ですな」
後ろ姿にそう呟いた半右衛門が、駒ヶ根を見渡せる物見曲輪の突端に宗冬を誘った。
「兵も休まりました。兵糧も十分に補給できております」
「坂中殿、明日、出陣しましょう」
「すぐに手配をいたします」
出陣には勝利を皆で祈って士気を高める為に、験を担ぐ儀式が欠かせない。
「そういえば、今日はお付きの観音様は」
「所用で出ております」
「そうですか。主人をお一人になさるとは、いけませんね」
近い、と宗冬が一歩離れると、半右衛門はさらに近付いて横に並び、その腰に手を回してきた。何を、と抗議を口にする宗冬の耳に、半右衛門は顔を近づけた。
「お館様は、貴方と会えるのを楽しみにしておられます」
「私は父にとっては無用の息子。宗良の間違いであろう」
「ああ、確かに。心通わぬ親子だと、聞いております」
「父がそう申されたか」
「ええ、お父上が」
「坂中殿の事は信頼なさっているのだな」
「信頼といいますか……」
宗冬の右耳の下に黒子を見つけ、半右衛門が楽しそうに舌先で舐めた。驚いて身を捩る宗冬を存外強い力で抱き寄せ、乱暴に唇を吸った。小さな悲鳴をあげて宗冬がその腕の中から必死で逃げ出し、脇差を抜いた。
「無礼者」
「お父上がいつも、私にしてくださる事なのですけど」
「父まで貶めるか」
「貶める、愛しいと思って契り合うことが貶める事になるのですか。あの葛も同類では」
「黙れ。葛をあなたと一緒にするな」
平静を取り戻した宗冬は、警戒したまま刀を収めた。
「とはいえ最近はすっかり殿とはご無沙汰で、会えばあなた方主従の話ばかり。少し妬けます。飯田か春日か、どちらかで死んでくれたら良かったのに、中々の戦上手で死にそうにはない。だから来てみたんですよ、こちらに。死んでもらえる好機があるかなぁと」
涼しい笑顔のまま、半右衛門が刀を抜いた。だが、宗冬は脇差には手をかけず半右衛門に視線を向けたまま、じりじりと柵に沿って後退りをした。
半右衛門が右足の指先を地面に食い込ませ、一気に間合いに入るべく跳躍の態勢を取った時、黒い布に包まれた物体が飛来して半右衛門の顔に当たった。
「ご所望の伊那部茂義の首だ。ついでに、伊那部一族の支城から街道に出るために架かっている三峰川の橋も山の民を使って全て落としておいてやったぞ」
宗冬を背に庇うように現れたのは、忍装束の葛であった。
覆面を下げたその顔は怒りに歪んでいた。
「葛、すまなんだな」
「何のことはございませぬ」
半右衛門を注視したまま優しく答えるも、切っ先はしっかりと半右衛門の首を狙い定めている。
「若に無礼を働いてただで済むと思うてか」
「怒った顔も美しいな。いやいや冗談ですよ、冗談。お二人があんまり仙人のような清い心のままなもので、決戦前にちょっとお覚悟の程を確かめたかっただけです」
笑いながら刀を鞘に収め、半右衛門が黒い布に包まれた物体を持ち上げた。確かに、布を解いてみれば、武将の首が現れた。
「仕事がお早い。これなれば進軍も容易になります」
布ごと首を放り捨て、半右衛門は興味が削がれたとばかりに去っていった。
葛の背後で、宗冬がごしごしと袖で口元を拭った。
「もっと早く戻るべきでした」
「いや、葛には面倒をかけてしまった。敢えて葛が策に乗って城から離れる事で、半右衛門の真意を探れたらと思うたが……危険な真似をさせてしまったな」
「何の。これでも玄人ですから」
そう笑いながらも、葛は丹念に宗冬の体を確かめた。
「他に、お怪我などはございませぬか、無体はされておりませぬか。あの男、斬るときは私が斬りますから遠慮なく」
「そう鼻息を荒くしなくても」
「荒くもなります! 膾に切り刻んで鮒の餌にでもしてやらぬでは収まりませぬ」
黒装束を解いて表返し、あっという間に可憐な小袖姿の腰元に変化した葛が、宗冬の手を掴んで地面を踏みならすように歩き出した。
「ねえ葛」
「お顔を洗いますよ。何ならお体も。あんな男に触れられたらお心が穢れます、不潔です」
「しかし、敵とはいえ首をあのままには」
「懇ろに弔うように、既に手下に命じてあります」
「はいはい、手回しの良いことで」
これはもう一切逆らうべくもないと、葛の手の温もりを体に受けながら引かれるがままに宗冬は付いていった。
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