命運

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       命運

 小雨の降る肌寒い明け方、まだ日が昇り切らぬうちに宗冬は出陣をした。  織田島・奥川軍は真っ直ぐに高遠を目指し、途中仁科方の支城は数で押し出すように制圧し、二日と経たぬうちに高遠城の目前まで迫っていた。 「天神山城、蟻塚城共に、将兵は全て高遠に逃れました」  陣所で絵図面を覗き込んでいた政虎が、両城を墨で潰した。雨はしとしとと振り続け、宗良などは膝に毛皮を掛けて震えている始末であった。 「こう雨続きでは鉄砲が使えませぬ。士気が落ちる前に一気に動いてしまわぬと」  政虎が献策するが、宗冬はじっと考え込んでいた。 「ここは高田玄道の盟友とも言える軍師、山縣勘助が縄張りをした城だ。今藤森衆に探らせているが、下手に手を出せばこちらの犠牲が大きくなるばかりだ」 「しかし、雪が降り出したら厄介です。引けなくなりますよ」 「そうよな……」  膝に立てた采配に顎を乗せるようにして、宗冬が絵図面を眺めるものの、これといった決め手が思いつかない。すると、あんなことがあっても変わらず涼しい顔で同席していた半右衛門が、扇の先で一点を指した。 「本戸殿は弓隊を率いて三峰川に回り込み、南曲輪を見通せる林の中で待機を」 「無茶な。着くまでに敵に見つかるではないか」 「そこはそれ、観音様のお力で。この雨はあと四日、いえ三日で止むはずです」  半右衛門が葛を見て不敵に微笑んだ。  高遠城内は、仁科克信(にしなかつのぶ)の母方の伯父と従兄弟らが天神山城から逃げ込み、さらに蟻塚城からも仁科一門衆が逃げ込んできたことで、統制が乱れ始めていた。克信直属の配下は厳しい規律の元、奥川軍を必ず退ける一念で城を守っているが、逃げ込んできた連中は柘榴館から本隊が駆けつけてくるまでは城に籠もれば良いと、高遠城の備えを過信していた。  若い克信は、自らの家臣団のみで軍議を開き、織田島宗冬の布陣を具に調べ上げていた。 「殿、宗冬の軍には鉄砲隊がついておりますが、この雨では使い物になりませぬ。今のうちに叩いておくべきかと」 「敵は今や一万ぞ、しかも足場が悪くては騎馬も役に立たん。今は分が悪い」 「しかし籠城するには……」  伯父御が、と老臣が口籠った時、物見の兵が下卑た笑顔を見せながら入ってきた。 「申し上げます、藤沢川と三峰川の合流する河原に、夜な夜な美女が現れるとの噂で、今宵も兵たちが大手門から坂を駆け下りて、外堀の柵に噛り付いておりまする」  数日前から耳にしていた噂に、克信は胸騒ぎを感じて立ち上がった。 「案内せい」  短躯ではあるが全身を鍛え抜かれた筋肉で覆われている克信は、弓矢を手に恐ろしく早足で大手門に向かった。  鈴を手にした長い髪の女が、くるりくるりと踊り狂っている。小雨に揺れる篝火に照らされ、しどけなくまとっている帷子が片方の肩から滑り落ち、滑らかで白い肩から胸元までが露わになる。男たちが夜の空に歓声を上げると、長い髪に覆われた横顔をふと城に向け、紅に染まる唇から切なげな吐息をついてみせる。まるで耳元に息を吹きかけられたかのように男たちは悩殺されていった。 「何じゃあれは」  次第に裾も乱れ、白い太ももが際どいところまで露わになると、娯楽に飢えていた男たちは柵を越えて身を乗り出さんばかりである。 「もう三日になりましょうか。噂が噂を呼び、とうとう城兵の殆どが骨抜きになっていく有様でして」  直臣だけはこの状況を憂うように眉を顰めた。  黎明、雨が止んだ。  季節外れの強さを持って朝日が昇り、ふんだんに水分を吸っていた山の木々から蒸気が立ち上った。霧となって織田島軍の全容は高遠城の物見から隠され、代わりに朝日が照らしたのは惚けた顔で其処彼処に寝転がる兵士たちの姿であった。  城が目覚めるより早く、南曲輪に火矢がかけられた。同時に、霧の中から突如として現れた鉄砲隊が大手門に狙いを定め、一斉に火を噴いた。 「かかれ! 」  宗冬の号令と共に、機能不全となった大手門に巨木が打ち付けられ、破られた城門から騎馬兵が雪崩れ込んだ。  瞬く間に三の丸の兵を蹴散らすと、歩兵が二の丸へ雪崩れ込んだ。援護するかのように、南崖の三峰川から火矢が降り注ぐ。本丸や南曲輪から逃げてきた城兵を、槍衾を手にした歩兵が容赦なく倒していった。  宗冬が蒼風で三の丸を疾走し二の丸に至ったところで、本丸から漸く本隊と思しき騎馬隊が現れた。  筋骨隆々とした若武者が、宗冬に向かって赤柄の槍をしごいている。宗冬は敢えて腰に佩いた大刀を抜き、高々と掲げた。 「其処元が織田島宗冬か」 「然様、仁科克信殿とお見受けいたす。者共、手出し無用」  馬の腹を蹴る克信の一喝を合図に、二組の人馬が本丸と二の丸を繋ぐ桜雲橋の上で激突した。頭上で円を描くように槍を振り回しながら駆けてくる克信の一撃を、馬の背に寝るほどに体を反らせて躱し、素早く馬首を巡らせて宗冬が突進した。方向転換する敏捷さは蒼風が数段上である。やっと馬首を宗冬に向けた所を突撃され、克信の馬が横倒しになった。地面に放り出された克信は身軽に立ち上がり、更に馬上から斬りつける宗冬の切っ先を躱した。三度の打ち合いの後、突進した蒼風の背から宗冬が克信めがけて飛び降りた。  体に密着されては槍は使えない。必死に脇差に手を伸ばす克信に馬乗りになって首に刃先を突きつけるも、宗冬は腹に蹴りを食らって弾き飛ばされた。仰向けに倒れる宗冬に、克信が飛びかかる。間一髪横に転がって下敷きになることを避け、地面に全身を打ち付けた克信の背中に宗冬が跨る。そして刃先を水平に首に当て、両手で渾身の力で引き抜いた。  骨を断つ感触の後、勢い余って刀を握ったまま宗冬が仰向けに転がった。その全身に血が降り注ぎ、やがて宗冬の胸元に克信の首が落ちてきた。  一瞬の静寂の後、織田島軍から勝利を確信した咆哮が上がり、城中を押し包んだ。     高遠が落ちたとの知らせは瞬く間に織田島軍に届き、宗近は速度を上げて諏訪から甲府へと一気に兵を進めた。  克信ら猛将を失ったことで、隆信ら甲府の高田軍は大きく戦意を喪失していた。早々に柘榴館を捨てて落ち延びた隆信は、妻の一族を頼って武蔵へと落ち延びるが、やがて古くからの忠臣に裏切られ、八王子の山中にて自害した。  1579年晩秋。ここに、高田家は滅亡したのであった。  
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