8.父

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8.父

 高田家滅亡の後、織田島宗近(おだじまむねちか)奥川将康(おくがわまさやす)は、隆信以下主だった重臣らの首実検を柘榴館で行うと、後の処理を明智宗兵衛(あけちそうべえ)ら側近に任せ、雪深くなる前に信濃から撤収した。  岐阜城で改めて、戦勝祝いの宴が催されることとなった。柘榴館での隆信との最終戦に合流したとて、一顧だにしなかった父に今更会う気は無いと拒んだ宗冬であったが、将康のたっての頼みとあっては断れず、連れ立って登城することとなった。  側を離れぬと言って聞かぬ葛と藤森衆を懇ろに慰労し、一旦藤森の里に返した為、素襖直垂の装束は将康の側室が支度してくれたものであった。 「何と雅な。やはり、三条橋家のお血筋は争えませぬな」  自身も公家の出であるという側室は、見事な美将ぶりの宗冬を見上げて頰を赤らめ、惚れ惚れとした様子で将康に言ったものである。  岐阜城の本丸御殿では、先に帰参を許されていた宗良が客人の応対役を務めていた。宗冬と将康の姿を見ると、思わず式台から草履も履かずに駆け下りてきた。 「これは奥川様、兄上」 「おいおい、裸足ではないか」  宗良(むねなが)が涙を浮かべて宗冬の手を取った。 「息災であったか。父の御勘気は解けたのか」 「はい、兄上のお陰です。何とお礼を、その……お詫びを」 「そのようなことはもう良い、葛とて怒ってはおらぬよ。さ、案内を頼む」  宗良がこうして客人の持て成し役として働いているということは、時期織田島当主としての顔繋ぎをさせる意味もあるのだろうと、宗良の立場が安泰になったことを宗冬は素直に喜んだのであった。 「もう客人が揃い始めているようですが」  改築された天守の望楼にある寝所では、まだ宗近が裸のまま大の字に寝そべっていた。 「明野(あけの)の方が支度を整えて下でお待ちだそうですよ」  と言いながら、その肌の上に同じく一糸まとわぬ姿で重なり、半右衛門が宗近の胸板に頬擦りをした。 「おまえは若いな、半。私とさして変わらぬ年だというのに、小姓の餓鬼共と変わらぬ体をしている」  というより血色が悪いと、宗近は言葉を呑み込んだ。 「戦は嫌ですね。あなたとこうなって一日たりとも離れたくないというのに……宗冬はどうされるのです。うっかり殺しそうになりましたけど」 「やはり手を出したか」 「だって貴方ったら一顧だにせぬ癖に、その実あの者らの動きをとても気になさっておられたのだもの。ああ、藤森葛とかいう近習、あれも面白いですよ。壮絶に美しくて婀娜っぽくて、相当に血にも色にも塗れ切っている癖に、どこか純でして。小耳に挟みましたけど、あの葛も三条橋の血だそうですね」 「ああ。三条橋とかつての伊勢の大名・犀川(さいかわ)の血だ」 「道理で。ギリギリのところで品を損なわぬあたり、やはりね」  のっそりと起き上がり、半右衛門が宗近に顔を寄せた。 「初めて稲葉山の城でお目にかかった日、貴方に惹かれる己を抑えることができなかった。そんな私の心を見透かして、こうなれるよう、私にバカ息子をけしかけさせて西道の家を潰させた。こんな悪い男に何で惚れてしまったのか」  むしゃぶりつくように半右衛門が宗近の唇を奪うが、天井に向けられたままの宗近の目は冷めていた。 「さ、良い加減にお支度を」  裸体にしどけなく小袖を羽織り、半右衛門は宗近から体を離した。布擦れの音を聞きながら宗近はのっそりと起き上がり、枕元の刀を手にした。  半右衛門は微笑んだままその抜き身の切っ先の前に露わな胸を差し出した。 「宗冬をうっかり殺しそうになったから、ですか」 「勝手は許さぬ。たとえお前でも」 「たとえ、って……何か凄く嬉しい」  階下では、明野がじっと宗近の素襖直垂を用意して待っている。梯子のような階段の上から聞こえてくる睦事にも動じず、ただじっと座していた。 「下らぬ悋気は為にならぬと心得よ」 「下らなくて結構。これからも悋気は滅茶苦茶しますよ。だって最後の恋ですから」  宗近の切っ先が、半右衛門の青白い胸板に十文字の傷をつけた。 「はは、これいいな。貴方のものって気がする」  切っ先から血が滴る刀を放り投げ、宗近が半右衛門を乱暴に抱き寄せて唇を吸った。  奥川将康一行は、下座に石川一貴、酒匂清重、喜井政虎ら木曽攻めで功の大きい武将が並んでいた。織田島家中からも、先田頼家(さきたよりいえ)柴賀克岳(しばがかつたけ)伊庭長近(いばながちか)ら重臣が列席していた。改築された天守の大広間である饗応の席からは、美濃の山々を見渡すことができる。宗近を待つ間、将康らもその風景を愛でながら、高田攻めについての意見を交わしていた。  やがて、主人として宗近が現れ、宴が始められた。宗近の両隣には宗良と笹尾丸が座し、まだ十歳になったばかりの笹尾丸には後見として明野姫が付き従っていた。  宗冬の席には、織田島家中の主だった武将が酒徳利を手に近寄ってきては見事な戦ぶりを湛えて盃を満たしていった。礼を述べながら飲み干す宗冬に将康が耳打ちをした。 「無理を致すな」  はい、と返事したつもりで、そのまま宗冬はひっくり返ってしまった。  激しい頭痛に目を覚ましてのっそりと起き上がると、どうやら客間の一室のようであり、素襖直垂の前合わせが解かれ、帯も解かれていた。誰かが介抱してくれたのかと、ちかちかする目で辺りを見渡した時、開け放たれた障子の向こう、着流し姿で山々を見渡す宗近が立っていた。何と呼んでいいか、逡巡するままに言葉を失っていると、気がついた宗近が振り返り、例の冷めた目を向けた。 「愚か者が、父に恥をかかせおって」 「も、申し訳もございません」  消え入るような声で詫び、探るように視線をそっと向けると、宗近がフッと微笑んだ。 「取って食ったりはせぬ。そのような、芙由子(ふゆこ)と同じ目で儂を見るな」  まだクラクラする頭を振り、宗冬は床から這い出して正座をした。その膝元に、宗近が手にしていた打刀を放り投げた。 「千子正重(せんごまさしげ)作じゃ。将康めはお前にろくな刀を持たせておらなんだのう」  そう言いながら、もう一つ、篠笛の入った錦袋を宗冬に投げよこした。 「母の形見を血塗れにしおって」  戦さ場でも肌身離さず持っていた母の形見の篠笛を、宗冬は胸元に押し抱いた。あの公家育ちの母が指先を針で何度も刺しながら端切れで縫った袋は、柄も判らぬ程にくたびれてしまっている。葛が何度も血の汚れを洗ってくれたが、落ち切らずに残った血の染みが幾重にも重なり、雅な柄はただの茶色に変わり果ててしまっていた。 「お、お館様が私を厭うのは致し方ないことでございます、しかし何故母を、母上を死なせたのですか。何故お優しい言葉一つ、掛けて差し上げなかったのですか」  頭の痛みも忘れ、堰を切ったようにこれまで鬱積していた言葉を投げつけ、宗冬は宗近の足元に取り縋った。 「戦さ場に身を浸し、血に塗れていた25の男の継室に、15の姫が嫁いできたのじゃ」 「意味がわかりまませぬ」 「……美し過ぎて、穢してしまうのが、恐ろしかった」 「父、上」  初めて、父に向かって父上と呼んだ。初めてそう呼ばれた宗近も、所在なさげに目を泳がせている。 「欲というものがまるでない芙由子のような女に、儂は出会うたことがなかった。お前のことも……男でも女でも、好きなように生きれば良いと思うた」 「今更何を! 私のこの体が、私が、化け物のようで忌むべきもので、だからこそ、他家に押しやって利用したくせに、死のうが生きようが構わぬとばかりに! 」  泣き叫ぶ宗冬の頭に、宗近が大きくゴツゴツとした手を乗せた。その能面のような整った細面からは想像もできぬ、逞しく節くれ立ったその手に、宗冬が恐る恐る触れた。 「おまえは京へ行け。京に屋敷を構えて暮らせ。儂は向こう二年の内には必ず京に上る故、それまで畿内の大名を抑えて地ならしをし、差配を致せ」 「お待ちください、私は織田島家中に戻る気はありませぬ」 「……で、あるか」  頭に置かれていた宗近の手に力がこもり、思い切り髷を握られた。 「こいつを切り落としておまえを儂から隠した将康め、おまえが武将として化けるのを解っておったのじゃ。おまえが家中におれば、もっと早くに美濃と信濃は制圧できたであろうに。忌々しい」 「将康様は私にとりましては大恩人。此度のお働きに免じ、大高と鳴海を将康様にきちんとお返しください」  一度腹から声を出してしまえば宗近とて恐れるものではないと、宗冬がきっと顔を上げて宗近に迫った。 「私は将康様の元に参りとうございます。但し、褒賞を下さるというのであれば確かに京の屋敷一揃え、喜んで賜りまする」 「で、あるか」 「何ですそれ、全然面白くないんですけど」 「何だと、たわけが」 「たわけって何です、私がたわけなら父上は大たわけでしょう。今更父親ぶって、褒賞もらったって嬉しくも何ともありませんから。でも、私のために働いてくれた者達がいるから、その者達のために頂くだけです。別に貴方を父と思ってのことではありませんから」  自分の意思を無視するかのように父への恨み言が口を吐いて出てくる。止まらないとばかりに、宗冬は鼻を啜り、しゃくりあげながら喚き続けていた。 「私が戦音痴だったら、絶対見向きもしなかったくせに。使えると思ったからって、急に父親面するのはやめてください。私には葛という姉がいます。葛がいたこそ、生きてこられたんです、父上なんか糞食らえです、私の家族は葛と碤三と、紘だけです。孫ができたって、絶対会わせてなんかやらないんですから。孤独な老後とやらをお過ごしになればいいんです、ざまぁ見ろ! 」  ぜぇぜぇと肩で息をしてそこまでまくし立てる宗冬の鼻を、宗近がむんずと摘んだ。 「また文句を思いついたら、いつでも此処に来るが良い」   子供のように涙と鼻水でくしゃくしゃになっている宗冬の顔を覗き込み、宗近はフンと鼻で笑って出ていった。  岡崎へ戻る将康一行とは、岐阜で別れることとなった。 「宗冬よ、大高と鳴海を取り戻す為の口添え、痛み入る」 「何の、将康様から受けた御恩の万分の一にもなりませぬ」 「可愛い事を。良いか、京の普請が終わったら、必ず岡崎へ遊びに参れよ」  碁石を打つ真似をして、将康が馬に鞭を入れた。一貴、清重が続き、政虎に至っては子供のように大きく手を振りながら一行の最後に駆けていった。  曲がりくねった街道の先に一行の姿が見えなくなるまで、宗冬は頭を下げて見送った。
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