夫婦桜

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       夫婦桜

 藤森の里の館の桜が咲いた。  寝間の障子を開けると、早くも風に吹かれて花びらが舞い降りてきた。  裸体に鮮やかな色の小袖をしどけなく羽織っただけの姿で、葛は障子に寄りかかるように座したまま、じっと飽くことなくその桜を見つめていた。 「畑から見えるぞ」  背中越しに伸びてきた太く逞しい両手が、小袖の前を重ねて葛の滑らかな体を覆い隠し、そのまま抱きしめた。 「こうして碤三と桜を眺めるのは二年ぶりだな」  碤三が白い頸に唇を這わせると、葛が心地良さそうに吐息を漏らした。 「畿内が落ち着いて漸くおまえが戻って、三日だぜ、三日。まだ抱き足りねぇんだけど」 「バカ……おまえだって昨年は治療で京都から動けなかったじゃないか」  顔を碤三に向けた葛の指が、失った左目の傷跡をそっとなぞった。 「どう、痛むか」 「雨が降ったり冷えたりするとな。だが、何てこたぁ無ぇよ」 「そうだ、眼帯を縫ったんだ」  碤三の中からするりと抜け出し、片手で小袖を押さえたまま床の間の小箱を探った。その拍子に右肩からするりと着物が滑った。寝乱れたような婀娜な後ろ姿に、碤三はついむしゃぶりつきたい衝動に駆られたが、振り向いた葛のあどけない表情がそんな劣情を押し留めた。 「端切れだが、真ん中の辺りは通気の良いように麻を使ってみた。付けてやる」  自分は今どんな顔をしているのだろうと、思わず伏せた碤三の顔を、葛が両手でぐいと持ち上げた。前合わせが肌蹴て裸体が晒されるのも構わず、葛は丸く縫われた布地の部分をそっと傷口に当て、膝立ちになって縫い付けられた組紐を頭の後ろで結んだ。  顔にかかる葛の髪の香りを深く吸い込み、碤三が首筋に再び食らいついた。 「ダメだって、ずれてしまう……ねぇ、よく見せて」  猛獣を宥めるように、葛が両手で碤三の頬を挟むようにして顔を上下左右に動かした。 「良かった、紐の長さも当て布の大きさも丁度良い」  じっと覗き込んでくる葛は、とても先の戦で血塗れになって敵を殲滅したとは思えない無邪気な笑顔を見せている。このままがいい、この笑顔のままがいい、忍働きなどやめて、ここで穏やかに暮らそう……出来ぬ事と知りながら碤三はそう切望した。 「何だ、泣いているのか」 「うるせぇよ」 「碤三、すまなかった……ありがとう」 「なぁ、もう京には戻るなよ。宗冬は紘と暮らす屋敷の普請の為に京に行ったんだ。お前は此処で俺と、のんびりと暮らさないか」  もう何度目かの告白は、やはり葛の苦渋の首振りで拒まれてしまった。 「そんなにあの小僧がいいのか! だったら行っちまえよ。亭主の俺よりあいつがいいならもう勝手にしろよ! 」 「碤三」  葛が己を抱くように身を小さくして泣いた。そんな脆い姿も、自分の前でだけ晒してくれるというのに、碤三はどうしても感情をぶつけずにはいられなかった。 「俺はこんな目になっちまった。もう昔のようには働けないし、命のやり取りをするような働き場でお前を助けることもできない。お前に何かあったら、俺は生きていられない」  びくりと、葛が肩を震わせた。 「お前一人を死地にやるなんて、嫌だぞ、俺は」 「何だよおまえは、片目を無くしたくらいで! 私はそんな意気地無しに全てを預けたつもりはない。そんな惰弱なヤツは願い下げた。私の半身はもっと強い、もっと強い! 」  散らばっていた帯をかき抱き、葛は駆け出して行ってしまった。    着流し姿で慌てて屋敷から飛び出し、碤三は里の方々を駆け回った。本当に行ってしまったのかと、情けなくて泣き出してしまいそうな猛烈な後悔が胸元を締めつける。通り行く里の者に体裁も無く聞いて回っても、誰も行方を知りそうにない。  ふと思いつき、碤三は訓練の場である竹林に向かった。夕刻とあって若い衆は大概畑仕事に戻っている時分である。薄暗い広場に立ち、碤三はぐるりと取り囲む竹林を見渡した。  ひゅんと音を立て、足元に手裏剣が刺さる。此処のところ鉄が良く手に入るようになり、上忍は大抵こんな十字手裏剣を常備するようになっていた。  相手は分かっている。風に乗って微かにあの匂いがする。もう片方の目も閉じ、完全に視覚を絶って、相手の次なる攻撃をじっと待った。  背後からの飛来物を微かな重心移動で躱し、左、右、と突き出されてきた槍の穂先を手刀で叩き落とし、相手が抜いて上段から振り下ろしてきた刀を、頭の上ではっしと両手で挟み止めた。尚も振り下ろそうと力を失わずにいる切っ先を唸り声と共に膝に叩きつけると、刀は見事に折れた。尚も残りの刀身で突きを繰り出す相手の間合いからトンボを切って逃げたと見せ、地面を滑るように相手の足元めがけて蹴りを出し、跳躍で躱した相手の足首を掴んで思い切り体を地面に叩きつけた。  背中を叩きつけられ悶絶する相手の唸り声に、碤三は目を開けて駆け寄った。 「葛、大丈夫か」  腰をさすりながら上体を起こす葛に、碤三が情けない声を上げた。 「す、すまん、つい力加減が」 「バカ、敵に加減してどうする。おまえ、片目でもこれだけ戦えるんだぞ」  座り込む碤三の膝に顎を乗せて碤三を見上げる葛の目は、蕩けたように潤んでいる。 「私にとっておまえはもう、この身そのもの、私の半身なのだ。いっそお前の中の血肉になってこの世から無くなって仕舞いたい程、ずっとずっと重なっていたい。でも宗冬様は私がこの手で、おまえと共にお育てした、実の弟とも思っているお方。お側でお支えしたい……それは、強欲な私の我儘なのか。誰も失いたくないというのは贅沢か」  はいはい、と苦笑して碤三は葛を抱き起こした。これはもう降参というしかない。 「第一私が働かぬでは、里の暮らしが立ちゆかぬ」 「だよな、何たって頼りになるお頭様、言わばこの里のお館様だもんな……俺はさ、のんびり暮らして普通の爺と婆になりてぇと、そんな弱気な事を思っちまったんだよ」 「私はどちらかと言えば、爺だぞ」 「うるせぇ……ああ、危うくクソみてぇなヒモ亭主に成り下がるところだったぜ……この目の分も強くなれるように、俺は修行する。だから暫くは無茶しねぇって誓え」 「誓えったって……」 「あと、お前が京に戻る日まで、俺から片時も離れるな」  くすりと笑って葛が碤三の首に両腕を巻きつけた。頰を重ね、耳元で答えた。 「はい喜んで。私の旦那様」  だらしなく相好を崩すのを止められずにデレデレとにやける碤三が愛おしく、葛はその眼帯越しの左目に、鼻に、そして口に、丹念に口づけを捧げた。  二日後、葛は京を目指して里を発った。同時に碤三も、誰にも行き先を告げずに旅立ったのであった。    
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