面影桜

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       面影桜

 1582年、18歳を迎えた春、宗冬は自邸と隣接する三条橋邸を訪れ、自邸の完成の報告と、長きに渡る普請中の騒音や織田島軍の出入りにより迷惑をかけた事を詫びていた。  見事に手入れの行き届いた庭園に、あの大きな桜の古木があった。もう花の盛りは過ぎていようが、久しぶりにゆっくりと見上げる桜は、やはり儚く美しい。 「芙由子を思い出すか」  少し癇に障る高めの御所言葉に振り向くと、口元を扇で隠した三条橋道実(みちざね)が立っていた。 「これは伯父上」  膝を折って迎えると、道実は宗冬の側までやってきてその肩に手を置いた。 「よう参ったの、一日千秋の思いでこの日を待っておった」 「有難きこと。今後は親しくご近所付き合いの程を願わしゅう存じます」 「京には四季折々のしきたりがある。いつでも学びに参るが良い」 「はい」  道実に促されるように宗冬が立ち上がった。二人は並んで池の辺りを歩いた。背こそ宗冬が幾分高いが、二人の似通った容姿は、やはり血縁を感じさせるものであった。 「宗近は所司代に軍を持たせたが、朝堂を軽んじての事か」 「いえ、不穏な輩を取り締まり、朝堂を安んじ奉るのが務め。天子様をお守りする事こそが、我ら武家の責務にございます」 「武家か……その方、公家にはならぬか」 「は、それはどういう」 「私にはもう……息子も娘も、全て死に絶えてしまった。娘は嫁ぎ先で、息子は病で。妻もなく、この屋敷に家族と呼べるものはいない。遠縁の男児を引き取ることも考えたが、ここにこうも美しく立派に成人した甥がいるのならば、その甥に向後を託したい」 「お戯れを」 「戯れではない。私の後継として、三条橋を継いでほしい。織田島には男子が他に二人もおるではないか。私には、おまえしか血の絆を感じられるものがおらぬ」  二人の間に風が吹いた。桜の花弁が道実を姿を掻き消してしまいそうなほどに二人の周りを覆い尽くした。  自邸に戻ってから、宗冬は庭の桜を眺めながら考え込んでいた。桜といっても昨年に移植したばかりの若木で、この土が気に入っているかもわからない。ほんの幾つか花が咲いただけの桜は、己の器量と釣り合わぬ境遇に戸惑う己自身のようでもあった。 「何考えてるの」   白湯を手に現れたのは、相変わらず下働きの姿をした紘であった。家中の者たちも今はすっかり慣れてしまい、毎日一緒に和やかに笑いながら家事を務めている。行儀見習いも不要と言い切る紘に無理強いはせず、本人のやりたいように過ごさせていた。 「伯父上に養子にならぬかと言われた」 「ならないの」 「公家など無縁の生活をして参ったのじゃ、務まろうはずがない」  差し出された白湯を飲む仕草など、その辺りの貧乏公家の青年らより余程に公達らしいのにと、紘は首を傾げた。 「そうなれば紘とて今のままというわけにはいかぬ。奥方様として振舞わねばならぬのじゃから。蒼風の世話などできぬぞ」 「そんなのは嫌だよ」  頰を膨らませて抗議する紘のあけすけな表情が、宗冬には堪らなく愛しかった。ここのところの京暮らしですり減っていた心が、暖かさに満ち溢れていくようであった。 「このままでよい」  紘の手を取り、自分に言い聞かせるように、宗冬はそう呟いて頷いた。  織田島と名乗る以上、世間は織田島の血縁とみなして交誼を通じようとしてくる。一方で、三条橋道実の甥という事実もまた京においては重きをなし、朝廷への口利きを頼む連中まで現れる始末であった。  名など無ければ……適当な名前をつけて表札を掛け替えてやろうかなどと思わぬではなかった。 「藤森の里では暮らせないの」  里での暮らしを知る紘は、度々そう言って宗冬を誘った。余程里の者と折り合いが良かったのか、今も密かに京の流行りの布地や食べ物を里へ送っている様子である。 「私が里へ行けば、必ず良からぬものを引きつけてしまう。巻き込むことは断じてできぬ」  不意に、紘が宗冬の手を自分の腹に触れさせた。前掛けで分からなかったが、幾分ふっくらとしていた。 「紘、もしや」  しっかりと紘は頷いた。実は、藤森の里で一度、子が流れてしまっていた。しかし紘はその子が宗冬の子か、盗賊共に乱暴された時の子か確信が持てず、宗冬には何も言わぬままであった。里の者も事情を理解した上で、黙してくれていたのだった。  しかし今腹のなかにいるのは、間違いなく宗冬の子である。 「そうか、私は父になるのか、なれるのか」 「そうだよ、父上様だよ」 「有難い、何と有難い事か! 私にはそんな幸甚は訪れぬものと諦めていた」  宗冬は顔を輝かせ、涙を浮かべて紘を抱きしめた。 「有難う、有難う。どうか体を労って欲しい。ほら、そんな野良着はもうやめて、体を冷やさぬ小袖と袴に着替えるんだ。もう膳所で働いてはいけないよ。誰か、誰か! 」 「そんな大げさな、まだ五ヶ月にもならないのに……」  これは大層子煩悩なお父上様になるに違いないと、慌てふためいて下女らを呼びつける宗冬の様子を、紘は隠しようのない幸せに満ちた笑顔で見つめていた。  そんな幸せな心地で過ごす事数日、やっと葛が京に着き、同時にあの明智宗兵衛が気ままに宗冬の屋敷を訪れるようになっていた。紘はすっかりお腹様として奥の間で大切に世話をされており、実質の家内の仕切りはやはり葛が務めることとなった。  時に腰元、時に近習と、相手によって器用に形を変えながら、富に増えてきた来客を上手にあしらってきた葛であったが、今日は腰元の姿で宗兵衛に茶を差し出していた。 「相変わらずお美しいことです。そうそう、高遠でのあの妖艶な舞が語り草になり、あの辺りに架け替えられた橋は、天女橋と名付けられたそうですよ。流石ですね」  客間に座すのもそこそこに相変わらずのお喋りを始める宗兵衛に、葛が咳払いをした。 「若はお忙しい御身の上でございます。御用件なれば手短に」  ああ、そうでした、とわざとらしく、宗兵衛は袂から書状を取り出した。 「お館様からです。京にて馬揃えを行い、朝廷の皆々様、恐れ多くも天子様に御臨席を賜わりたく、若様に手配をと仰せでございます」 「私にですか」 「何せ時の右大臣三条橋道実公の甥御様ですから。お上に献上する土産の類は、既に所司代を通じて御所にお届け申してございます。あ、勿論三条橋様にも。お館様は義兄である右大臣様を頼りにしておられます。稲川と縁の深い四津寺様や、左大臣九条様など、三条橋家と対立する一派にはまた別に、贈り物をご用意してございます」 「そう申されても、私には御所に上がるだけの位階もない」 「位階など、贖えば宜しゅうございます」  躊躇する宗冬の横で、葛が然もありなんと呟いた。 「お館様を超える官位を、御用意頂けば宜しゅうございましょう。私はこの足で三条橋邸へ参り、若の御後見として官職に御推挙頂けるよう願って参ります」 「待て葛」  初めて聞く宗冬の厳しい声に、葛も宗兵衛も驚いて動きを止めた。 「ならぬ。私は位階など求めぬ」 「そうは参りませぬ。第一生き馬の目を抜く京では、位階が身を助けることもございます。若ならばお血筋も申し分なく、その御功績にて正六位、お覚えめでたくばすぐに五位いえ四位、参議に加われば清涼殿に上がり天子様のお側にお仕えすることも叶いましょう。さすればお父上を遥かに凌ぎ、明智様にああせいこうせいと言われずに済むのです」 「いや、私はただお館様の名代で……」  じろりと凄みのある眦で葛に睨まれ、宗兵衛が肩を竦ませて黙った。 「紘を守れるのか」 「きっと守れましょう。第一、織田島が関東までを傘下に収めたとはいえ、九州はまだ手付かず、戦乱はなおも続きましょう。ならばいっそ武家を捨てるのも良いのでは」  宗兵衛の意見はと顔を見ると、何とも苦々しい顔をしていた。それもその筈で、御所や足利将軍との交誼を取り持つ為に実際に奔走したのは、半右衛門ではなくこの男である。  宗冬の出生はそんな苦労をいとも容易く飛び越えてしまうのだ。だが一方で、その出生に振り回されて苦しんできたことも、宗兵衛は痛いほどよく分かっていた。 「やはり、私はこのままでよい。武家だの公家だのと拘らず、あくまで一人の男として、この世の何某かに役立てればそれで良い」 「若」  血筋に翻弄され、血筋から逃れられず、今もまた憎む父の姓を捨てられずにいる。そうまでしてもやはり父は父なのかと、葛は継ぐべき言葉を呑み込んだ。 「すまぬな。葛の女御姿はさぞかし美しいであろうが」  押し黙る葛を気遣うように冗談を言う宗冬だが、自分の半生を嫌という程知り尽くした上で考え込む葛のその思いが解るだけに、それ以上の作り笑いはできなかった。  しかしそんな想いとは裏腹に、やがて宗冬は御所の推挙によって道実を後見とし、従六位を経て従五位の下尾張守となった。因みに宗近は、京の秩序を取り戻したことや御所修繕の働きによって、従三位権大納言となっていた。  更に天皇の側近くまで参内できるようにと道実が参議となれるよう根回しを始めたが、宗冬はそれを拒み、あくまで中立でいることに拘った。従五位を受けたのはただ、双方の行き過ぎた干渉を嗜められるだけの立場が必要だったというだけである。昨今は宗近が朝廷とりわけ次期天皇と目される誠仁親王に経済的に肩入れし、朝廷方への折衝役に宗兵衛をつけ、大金をつぎ込んで朝廷の掌握に明け暮れていた。そうなると、それまで緊密な関係にあった足利将軍は忘れ去られ、将軍は徐々に宗近への恨みを募らせいくこととなる。
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