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紘
宗兵衛は益々朝廷方との折衝役として存在感を放ち、まるで定宿の如く宗冬邸に度々訪れては長居をするのだった。今日も、三条橋道実との打ち合わせの後、前触れもなくふらりと立ち寄り、葛が美眉を顰めて奥へとしぶしぶ通したほどであった。
京での仕事が長い宗兵衛は、身に着けているものも垢抜けており、そつのないところは公家の女房たちにも受けが良いらしい。成る程、中年に差し掛かる年の割に、爽やかな青年然とした雰囲気は健在で、話し方にも武家特有の武張ったところがない。それどころか礼儀に煩い道実が褒めそやす程に、貴族方の立ち居振る舞いが堂に入っていた。
「本当に、馬揃えにお出にならないのですか。蒼風の勇姿をお館様は楽しみにされておいでですが」
「紘が間も無く出産なのです。いつ産まれても良いように、私は側にいてやりたいのです」
「相変わらずの愛妻ぶりですな」
自分もちゃっかり妻子を京に呼び寄せているくせにと、宗冬が笑った。
「宗兵衛様はお行列ではなく、饗応役でしたね。誠仁親王殿下がご臨席と承りました」
「ええ。三条橋様のお力と、三条橋様へお口添えくださった宗冬様のおかげです。そうでなくてはお館様に斬り殺されてましたって。とにかくそんな訳で、誠仁様のお側を離れることはできません。尤も、自慢になるような馬もありませんがね。連れてきた馬も、紘さんにボロクソ言われましたから」
「お許しください、根が正直な妻なもので」
「何ですと」
声を上げて笑っていると、葛が小袖裁着袴の姿で緊迫した様子で駆けてきた。御免、との声で障子が開けられ、葛が宗冬の許可を待たずに部屋に入ってきた。
「ご無礼を。只今知らせが参りまして、足利将軍家が俄かに挙兵、馬揃えに備えて本能寺に御滞在のお館様へ向けて進軍を始めたとのことです」
「何と」
茶碗を取り落とし、宗兵衛が絶句した。
「葛、すぐに藤森衆を集めて屋敷を固めよ。私は宗兵衛殿と所司代へ向かう」
「お待ちください、若はお出になられてはなりませぬ。親王様、将軍家、織田島家、誰が敵で何が狙いかも混沌としている有様です。無闇に関わってはお立場に障ります」
それ以上に紘が気に掛かる。宗冬は浮かしかけた腰を戻し、逡巡した。
「私はひとまず二条御所へ。東宮家をお守りいたします」
転がった茶碗を蹴飛ばす勢いで、宗兵衛が駆け出していった。誠仁親王は、かつての二条橋邸を宗近が買い取って荘厳に改築した二条御所に住んでいた。
「葛、将康様は。まだ堺におられるか」
「丁度京へと発たれる頃合いかもしれませぬ。急ぎ人をやり、喜井の直獅郎様と繋ぎをとって将康様を堺にお止まりいただくよう伝えましょう」
「直獅郎様も堺におられるのか」
「将康様御一行には政虎様もおられます。堺にてお会いになられている筈です」
事実、馬揃えに招待された将康は、宗近の好意で一月前から堺にて遊興していた。そこでは養子・政虎を取り立てた将康への御礼とばかりに、堺に通じた直獅郎が滞在中の世話を買って出ていた。
「ならば暫しお任せしよう。今は紘を動かせぬ」
昨晩から、紘は大きく膨れた腹の痛みを訴えるようになっていた。近所の産婆の話では、一両日中には出産が始まるだろうということで、既に泊まり込みで待機してもらっていた。
「物見を二条と本能寺と堺に。私は伯父上の元に行き、御所の警備を手配してすぐに戻る」
「承知いたしました」
「紘を頼む」
宗冬は宗近より拝領の千子正重の一振りを刀架から掴み取り、駆け出していった。
葛は藤森衆で邸内を固めると同時に、京の至る所へ向けて物見を放った。
緊迫が奥座敷にも伝わったか、部屋の障子越しに声をかけると、既に紘が起き上がっている気配がした。
「宗冬様は」
「お隣の三条橋邸へ。すぐに戻ると仰せでしたから、奥方様はお心安く」
「……姉さん、いざとなったら、私より宗冬様を守って」
「奥方様、私に全てお任せを」
「うん。だって玄人だもんね」
「然様です……良いか紘、無事に子を産むことだけを考えるのだぞ」
藤森衆の若い女を数人、紘の部屋の周りを固めさせ、葛は表玄関へと走った。
知らせを受けた道実が手を打つ間に宗冬が御所に駆けつけ、衛士による警護は瞬時に強化された。更に道実に恩顧ある大名が京屋敷から兵を出し、御所の守りは固まった。
何とか間に合ったと胸をなで下ろして自邸に戻ると、表門近くで剣戟が繰り広げられていた。葛が一人で兵の侵入を防いでいるものの、多勢に無勢、恐らく勝手口や裏門は破られているだろう。宗冬は葛に群がる兵を蒼風の前足で蹴散らし、馬上のまま門を潜った。
「どこの兵だ」
「旗印は九枚笹! 」
「九枚笹……坂中半右衛門か! 」
数ヶ月前に宗近とふらりと現れた時の、何事にも突っかかる態度が気に入らなかったが、ここまでとは……蒼風の上から刀を突き刺すように繰り出しながら敵を退け、庭を伝って奥殿へ向かった。
しかし既に、奥殿には半右衛門の兵が群がっていた。ゆらりと上がった火の手に戦慄を覚え、宗冬は妻の名を叫びながら奥へ奥へと斬り込んだ。
火の手は紘の産所の辺りから上がっていた。部屋の前では葛の配下と思しき女忍が下女の姿のまま戦っていたが、一人また一人と斬られていった。
「紘! 」
九枚笹の旗を背中に立てた兵を旗ごと背中から斬り捨て、組み敷かれていた女を助け起こした。
「紘は」
すると女は小さく首を振った。まさか、と震える手で障子を開けると、そこには血塗れで事切れている紘と、紘の体に覆いかぶさるようにして死んでいる産婆や下女達の、惨たらしい姿があった。
「敵襲を受けた時には既にご出産が始まっており、どうしてもお移しすることができませんでした。申し訳ございません、申し訳ございません」
女はそう叫ぶと、刀を首筋に当てて自刃しようとした。しかしその刀を宗冬が手で叩き落とした。幽鬼のような顔で、それでも自死を思い留まらせた宗冬に、女は突っ伏して詫びた。だがそんな嘆きも、宗冬の耳には最早届いていない。
坂中兵は、紘を庇った女達の体ごと紘を刺し貫いていた。もう間も無く生まれる筈だった赤子も、紘の腹ごと刺し貫かれていた。これ程に恨みがましく陰惨な殺し方はあるまい。
「紘、紘よ、済まぬ、済まぬ」
まだ膨れたままの腹を血に染めている紘を、宗冬は腕の中に抱いた。その両目は微かに開かれ、宗冬と赤子との三人の未来を想うかのように天を見据えたまま光を失っていた。
「若! 」
尚も追い縋るように挑んでくる坂中兵を後ろ手に振るった一撃で倒し、葛が産所に飛び込んできた。しかしすぐに、体の力を失ったかのようにその場にへたり込んでしまった。
「葛、敵兵は」
宗冬の忿怒に満ちた問いにも、葛は答えられなかった。
「しっかりいたせ、葛! 」
はい、と答えながらも、葛の顔は驚愕と口惜しさとでくしゃくしゃのままである。
「坂中半右衛門はいずこじゃ」
「お、おそらく、襲撃は家臣の指揮によるもの。はん、半右衛門はおそらく本能寺」
一気に吐き出すと、葛は床に爪を立てるようにして咆哮を上げた。
「葛、紘を頼む。綺麗にしてやっておくれ」
「わ、若! 」
「来るには及ばぬ。紘を、子を……」
言葉を継げぬ宗冬の背中から葛がしがみつくようにして抱き止めた。胸元に回された葛の血染めの手をしっかりと握りしめ、宗冬は存念を葛に伝えたのだった。
「頼む」
紘をそっと横たえ、宗冬はゆらりと立ち上がった。
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