本能寺   

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       本能寺   

 半兵衛が二条城に着く頃には、既に所司代から宗良が率いる一軍が救援に駆けつけていた。半兵衛は自軍の装備を整え、改めて本能寺へ向かった。  宗近がここ数年京都滞在に利用している本能寺は、伽藍こそ然程大きくはないが、宗近好みの意匠が凝らされ、寝所の調度品も宗近好みに整えられていた。  将軍家の兵が本能寺を取り囲んだ時、半右衛門は宗近の腕の中で血を吐いていた。 「おまえだな、半」  将軍家を刺激し、兵を挙げさせたのは半右衛門だろうと、宗近は見抜いていた。 「ずっと顔色が悪かった。もう、長くないのであろう」  宗近の胸に顔を埋め、ぜえぜえと肩で息をしながら半右衛門は頷いた。 「儂が宗冬に気を向けたのが、然程に口惜しかったか、馬鹿め」 「だって……私と生死を共にすると仰ったのに、あの小僧の為に、貴方は生に執着し始めた。長生きして、宗冬めが織田島の名を日の本に轟かせる様を見たいとさえ、思い始めていたでしょう」 「勝手なことを」 「残念ですけど、宗冬めは下賤な妻諸共先に地獄に行ってもらいました。ああ、清々した」 「貴様、気が触れたか」 「貴方のせいだ……一緒に、一緒に地獄に堕ちてください。離れるのは嫌です」  宗近の傷跡だらけの胸板が、半右衛門の血反吐に染まった。 「お館様、宗兵衛様の兵が到着なされました」  小姓が障子越しに告げるが、宗近は半右衛門を抱きしめたまま何も答えなかった。 「お館様、お下知を」  半右衛門の呼吸が細くなるのを感じながら、宗近は枕元に置いてある刀を引き寄せて抜いた。  やがて戦いの咆哮が届いてくるが、まるで遠い世界での出来事のように感じられ、宗近は静かに半右衛門の弱まる鼓動を聞いていた。  明智宗兵衛は本能寺を取り囲む足利勢を完膚なきまでに叩きのめした。這々の体で将軍家本人が出奔して逃げ出しても、宗兵衛は囲みを解くことはなく、その矛先を本能寺に向けたままであった。 「何故中に入られませぬか。見事なお働き、さぞお館様もお褒めになられることでしょう」  開門して駆け寄ってきた宗近の小姓を、宗兵衛は馬上のまま一刀の元に斬り捨てた。 「あの方に、父殺しの汚名まで着せるわけにはいかぬ。もう十分過ぎる程に苦しまれたというのに……坂中殿も、色に迷って晩節を汚すとは」  その時、一糸乱れぬ隊列を整えた軍を引き裂くように、蒼風が蹄を轟かせて主人を乗せて駆けてきた。そのまま山門を潜り抜ける勢いで駆けてきた人馬の前に、半兵衛は両手を広げて馬上のまま立ち塞がった。 「そこを退かれよ。明智殿に遺恨はない」  宗冬の顔は蒼白で、全ての感情を失ってしまったかのように凍りついていた。これが、あの貴公子然としていつでも柔和であった宗冬かと、広げていた両手をつい下げてしまった。その隙をついて、宗冬は山門を潜ってしまった。 「いかん、宗冬殿! 」  蒼風は、建物中から湧いて出てくる近習達を足蹴にして暴れまわった。宗冬の意思そのままに、渡り廊下に駆け上がり、そのまま奥殿へと突進した。  寝所が近いと見え、近習の腕も手強くなってくる。宗冬は蒼風から飛び降り、一心不乱に刀を振るった。矢を番える者達は、蒼風が足で蹴散らした。  宗兵衛が宗冬の後を追って兵と共に雪崩れ込み、寺領、本堂と順当に制圧していった。 「宗冬殿、宗冬殿! 」  人が倒れている場所を進んでいけば、自ずと宗近の寝所が知れる。弓隊を引き連れ、宗兵衛は奥へと駆けていった。  寝所と思しき部屋の前には、まだ年端もいかぬ小姓らが刀を手に待ち構えていた。 「退け。そこに坂中半右衛門がおろう。そなたらに危害は加えぬゆえ立ち去れ」 「慮外者め、ここはお館様ご寝所。何人たりとも通すわけにはいかぬ」 「愚かな。あたら若き命を散らすと申すか、あの気狂いの軍師のために」 「言うな! 」  斬りかかってきた小姓の華奢な肩口に、宗冬は刀の峰を叩きつけた。力の加減をする気はせず、骨の一本くらい折れていても命には別状あるまいと、無情に蹴散らした。 「坂中半右衛門! 」  両手で開け放った障子の向こう、更に奥の寝所では、小袖姿の宗近が、夜具の上で半裸の半右衛門を抱きしめていた。こちらに向けられている顔も宗近の白絹の小袖も血に染まり、半右衛門は既に生気を失っていた。 「今、逝った」 「その者の首を所望いたす」 「渡すことは叶わぬ。またおまえに悪さを致したか」 「その男は妻を殺した。産まれるはずであった我が子を殺した」 「で、あるか……地獄に着いたらよう叱っておかねばな」  ふざけるなと振り上げた千子正重の渾身の斬撃を、宗近が手にしていた刀を一閃して弾き返した。 「今更、何故その男を庇う」 「織田島はおそらく、食い散らかされて終わるであろう。宗兵衛はおまえを親殺しにせぬ代わりに主殺しの汚名を着ることで、お前を生かそうとしている。宗冬よ、武家はまだまだ成熟には程遠い。狭い了見から抜け出せぬ阿呆が多すぎて、新しい世を作りたいと思うても中々前には進まぬ。半右衛門と儂は、もう飽いた」 「飽いた……さんざん野望のために私を利用して、飽きたとは何だ! 妻を返せ、子を返せ! 自分だけ愛しい者を抱いて眠るなど、絶対に許さぬ! 」  宗冬が再び真っ向唐竹割りに千子正重を振り下ろすのが分かりながら、宗近は口元に笑みを浮かべて切っ先を下げた。黙って斬られるつもりかと振り下ろす軌道が僅かにぶれ、その間に宗兵衛の刀が差し込まれた。宗冬の振り下ろしの一刀は、火花とともに宗兵衛に弾き飛ばされた。 「父殺しはなりませぬ! 貴方様ほどのお方が背負うようなものではございません。畜生道に落ちるのはお館様と半右衛門の方です。そうでございましょう、お館様」 「宗兵衛、よう言うた。先に地獄で待っておる」  宗兵衛に冷笑を向け、宗近は迷いもなく刀で己の首を掻き切った。 「父上! 」 「火を放て。儂の首は誰にもやらぬ。宗兵衛、おまえは賊徒となって森下めに討たれてやれ。将康が全て承知しておる」 「この明智宗兵衛、遺言と思い、胸に刻みまする」  全てを呑み込んだ宗兵衛の返事に満足気に瞬きをし、宗近は宗冬を見上げた。 「宗冬よ……生きよ」  口から血を吹き出しながらも、宗近は叫び一つ上げることもなく更に刃を首に食い込ませていった。宗冬に向けてにっと悪戯気に笑うと、首に刀を食い込ませたまま、半右衛門を抱き包むかのように、静かに絶命した。 「宗冬殿、行かれよ」  恨みの矛先を目の前で失い、父とは思っていなかった父を失い、宗冬の思考は完全に停止していた。  刀を持つ手をだらりと下げたまま微動だにせぬ宗冬の頰を、宗兵衛が渾身の力で殴った。 「こんな綺麗な顔を殴って、あの世でお母上に怒られそうですよ。さ、葛さんのところにお戻りなさい。大丈夫、将康様と落ち合う頃には全て終わっていましょう。森下の追っ手がかかる前に早く京を出ることです」  こんな時にも洒脱な話し方で事も無気に笑ってみせる宗兵衛ながら、兵達には火の付け所を細かく指示をした。 「さ、私はこれから一世一代の大芝居を討たねばなりません。申し訳ありませんが、私の妻子を、時々気にかけてやっていただけませんか」  返事もせず立ち尽くす宗冬を、宗兵衛は信頼する忠臣に預け、本能寺からすぐに逃すように指示を出した。
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