伊賀越え

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       伊賀越え

 1582年、数刻と経たずに本能寺は焼け落ちた。宗近と半右衛門の首はとうとう見つからぬままである。先に本能寺を囲んだ将軍家は逃げ落ちた越前から、宗兵衛が主殺しの賊徒であるとの声明を数多の大名に発した。我先にと畿内に溢れかえった織田島家臣の中でも成り上がりの、中国攻めの地ならしをしていた筈の森下藤吉という男が、あっという間に山崎で宗兵衛の軍を破り、織田島家臣の一番手柄として実権を掌握していくこととなる。  宗兵衛は、落ち延びようと逃げ込んだ小栗栖の森の中で、落ち武者狩りに囲まれて絶命した、とされた。  宗兵衛の忠臣が宗冬を蒼風の背に乗せて、主人の指示通りに堺への街道口を目指すと、花の盛りを過ぎた桜の木の下で、武装した葛が藤森衆を従えて既に待っていた。 「我が主人の指示にて、お送り申した」 「かたじけのうございます。宗兵衛様に、くれぐれもよしなにお伝えくださりませ」 「承知」 「御武運を」  葛がふわりと蒼風に跨り、宗冬の背中越しに頭を垂れた。相変わらず魂が抜けたままのような宗冬は、ぼんやりと宙を見つめるだけであった。 「既に森下藤吉の軍が畿内を制圧しつつある。急げ」  女物の腰紐で自分の細い腰と宗冬の腰をしっかりと巻きつけ、葛は蒼風の手綱を握った。  宗近の強引な誘いで断りきれずに堺を見物していた将康であったが、元々馬揃えに間に合わせるつもりはなかったのであった。半右衛門の不穏な動きを察知しており、何やらきな臭さを感じていたのである。  そこへ届いたのが葛からの知らせであった。一行は京ではなく、岡崎へ逃げる為、伊賀峠を越え一路伊勢へ抜けることとなった。多羅尾氏の小川城から御斎峠を越え、柘植の山里を過ぎればもう藤森衆の縄張りである。ただ、このあたりは忍の一族が自治的に里を構えており、干渉を好まない。しかもどの衆がどの大名と繋がっているかも解らない。慎重な上にも慎重を期さねばならなかった。 「半右衛門め、あの色狂いのせいで全てが狂いおったわ」  小川城の客間で漸く足を延ばすことができた酒匂清重(さこうきよしげ)が、忌々し気に脇差の鐺を床に叩きつけた。 「あの半右衛門が、色で全てを穢したと本気で思うておるなら、お前は相当頭の出来が目出度いのう」  茶を喫してやっと一息ついた将康が、言葉を選ぶ余裕もないとばかりに毒づいた。 「森下にのう、面倒を押し付けたのよ」 「あの猿にですか」  成り上がりを隠そうともしない森下藤吉は、小柄で背が丸く、歩く姿はまるで猿のようで、織田島家中でも宗近にも、猿と呼ばれていた。 「儂が出番はずんと先のことじゃ。森下めは成り上がる為のどんな迂遠な手順も面倒とは思わぬ男よ。細々細々と働かせておけば良い」 「はぁ……」 「お館様は、それを見越して宗兵衛を隠したのじゃ」 「いや、小栗栖で死んだと」 「だから目出度いと申すのじゃ、お主は」  判じ物かとばかりに首をかしげる同行者の面々を見渡し、将康は溜息をついた。ここにいるのは全て武で鳴らした男たちで、後世の語り草にもなるであろう猛将ばかりである。  文官がいない。知恵が働き、内政、内務に長け、施政に役立つ能力を持つ者が圧倒的に欠けている。それは織田島家中も同じことであり、宗近が絶望したのもそこであった。彼が描いた治政を実現できる人材が、全くと言って良い程育っていなかったのである。 「あと十年、いや、二十年。宗兵衛、頼むぞ」  一人呟き、将康は体を休めるべく横たわった。    鬱々として眠れず、本戸勝重(ほんどかつしげ)は小川城を抜けて森の中をふらふらと歩いていた。落ち武者狩りの危険もある故、外歩きは厳禁と言われていたのであるが、あの狭い山城の中に男所帯がひしめき合う様は何とも気が滅入ってならなかった。城主の多羅尾正敏は夕餉の席に女を用意してくれたが、近隣の農婦に無理やり白粉を塗りこめたような中年女ばかりで、かえって気持ちが萎えるばかりであった。  月明かりの下、不意にまとわりついてきた蛍に誘われるように水辺に降り立った。これが多羅尾殿が言っていた弁天池か、と独りごち、勝重が森から斜面を下って畔に立った時であった。  水音がするなり、白蛇のような細い裸身が月明かりの下に現れた。驚いて刀に手をかけるが、こちらに向けられたままの背中の余りの美しさに、勝重は息を呑んだ。 「女、か」  女は、長い髪を丹念に梳き、やがて水気をしっかりと絞って頭頂にくるりと巻き上げた。  器用に簪一つで纏めるその仕草は、露わになった頸の美しさも相まって艶めかしく、いつしか勝重は誘われるように池の中へと足を踏み入れていた。  白く滑らかな肌に指先が触れる程に近寄った時、女が両肩を抱くようにして身を固くした。肩口越しに見える横顔がまた、白磁でできているのかと思わせる程に滑らかで、象る曲線がこの世のものとは思えぬ程に美しい。 「これは本戸様」  と、女と思しき人物が発した声に、勝重は思わず足元を滑らせて水の中にひっくり返ってしまった。 「この池は存外深いのですよ。水練がお好みですか」  全身ずぶ濡れになった本戸を抱えるように岸に上げ、そんな嫌味を浴びせたのは他ならぬ葛であった。全裸の葛の姿は、確かに若々しい男のものに違いない。だが、纏め上げられた黒髪といい、後れ毛がまとわりつく白い胸板といい、懸想しても構わないと血迷ってしまいそうな程の艶かしさである。 「何で、藤森殿が」 「主人の命にて皆さまをお迎えに参上したのです。けれど季節外れの暑さで汗ばんでしまいましたので」  しどけなく小袖を纏う様子は、あの高遠城で見た天女の舞の艶姿そのものであった。 「ほ、本戸様」  無意識に、勝重は葛を組み敷いていた。制御の利かない猛獣のような大男に組み敷かれながらも、葛はどこ吹く風といった様子で微笑んでいる。これは靡いてくれるのかと思いきや、己の股間にはしっかりと葛の懐剣の刃先が充てがわれていた。 「女人が所望でしたら、白子の港まで遮二無二お歩きくだされ」  髭に覆われた勝重の顔が、まるでおもちゃを取り上げられた赤子のように歪んだ。 「こんな三十路近い体より、ずっと若くて可愛い子がおりますよ」  勝重の下から這い出て身繕いをする葛の言葉に、勝重が目を見開いて頓狂な声を出した。 「三十路? 三十路のババアには見えんぞ」  連呼された葛の眉がピクリと痙攣するなり、勝重の喉元にまた懐剣の刃先が張り付いた。 「まだ27だ! 良く聞け、里で藤森の女達におイタをしたら即刻この首跳ね飛ばして脳みそ抉ってイノシシの餌にしてやる。誰が三十路のババァだっ、ブッ殺すぞ! 」  恐ろしい殺気に勝重は悲鳴をあげ、その場で何度も手は出さぬと約定をしたのであった。
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