白子へ

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 小川城に戻ってみれば、休んでいるはずの将康が既に起き上がって出発の支度を始めていた。ずぶ濡れの理由を問われて口籠る勝重にそれ以上の追求はなかったが、間も無く姿を見せた葛の、目尻に苛立ちを含んだ様子に、将康は理由を悟ったようであった。  家臣たちもほぼ出立の支度を終え、広間で城主の多羅尾正敏と葛も交え、周辺の地図を囲んでいた。 「森下藤吉様から、将康様をお見かけしたら足止めをせよと伊勢の国衆に通達が参りました。貴方様は明智側と目されておる様子。森下様が織田島家を掌握する前に岡崎へお戻りにならねば」 「多羅尾殿の申される通り、紀伊と伊勢の忍衆は最早、誰が敵か味方か分かりませぬ。野党化した浪人達による落ち武者狩りも熾烈を極めましょう。ここから先は我ら里衆のみが使う忍道を進みます。険しくなりますが、伊勢白子まで我ら藤森衆が案内仕ります」 「葛、宗冬は如何しておる」 「藤森の里にて殿のお着きをお待ち申しております。夜明けを待たずにご出立を」 「うむ。多羅尾殿、危急の折に世話になりし事、生涯忘れぬ」  奥川家中が揃って居住まいを正し、正敏以下主だった多羅尾家の面々に礼を述べた。  小川城から御斎峠、柘植の里を越え、加太から関へ至る直前に山間を少し渓谷へ南下し、一行は藤森の里に入った。明け方を待たぬうちからの山行であった為、健脚揃いの一行も流石に夕刻に至り、倒れこむようにして藤森の館に辿り着いたのであった。  山鳥を焼く香ばしさに目を覚ました将康は、客間の縁側から聳えるような桜の古木を見上げた。その根本には墓碑が建てられ、若者が一人、じっと手を合わせていた。 「宗冬か」  将康の声に、ゆっくりと顔を上げた宗冬が痛々しい笑顔を向けた。 「妻子を亡くしたと聞いた。それが、そうなのか」  宗冬がゆっくりと頷いた。そんな仕草も辛そうに、よろよろと痩せた体で立ち上がり、将康が座している縁側までふらふらと近寄ってきた。 「危ない」  葉桜の根に足を取られ、躓くようにして縁側に手をついた宗冬は、将康に背中を支えられながら、息を乱しつつ縁側に腰を下ろした。 「ご無事で、ようございました」 「お前こそ、よう無事でいてくれた。京からの知らせでは、宗良は既に森下に首根っこを押さえられ、連れていた兵は全て森下の麾下となったそうじゃ。あの猿めは恐らく明野姫と組んで笹尾丸を次なる当主に据え、後見として織田島家中を掌握することであろう。おまえは目の上のたんこぶじゃ」 「いっそ、本当に死んでしまった方が良かったかもしれませぬ」 「ならぬ。お前にはまだ役割があろう。森下が天下を地ならしした後、本当に戦のない世を作るには、おまえのような男が要る。宗兵衛もその為に大芝居を打ったのじゃ」 「私には最早役目など……」 「泣き濡れて生きるには、先が長過ぎるであろう」  と、襖の向こうから声がかかり、葛が酒食の膳を手に部屋に入ってきた。 「皆様には既に、広間で夕餉を召し上がっていただいております」 「造作をかけるな」 「何のことがございましょう。殿はこちらで、静かにお召し上がりになる方がよろしいかと。さ、若もどうぞ」  葛は柔らかな桜色の小袖に身を包み、女房衆のような前掛け姿であった。長い髪を背中で輪にして垂らし、薄く紅まで差している。 「私のような年増が相手では気も詰まりましょうが、お一つ」 「いやいや、命懸けの逃避行の間に弁天様が酌をしてくれようとは。或いはお迎えが近いのかのう」  まぁ、と柔らかく首をしならせて、葛が婉然と微笑んだ。 「殿は確か40と承っております。脂が乗った男盛りではありませぬか」  将康の隣に横座りし、しなだれるように体を寄せながら葛が将康の盃に酒を注いだ。 「政虎様が一足先に白子へ向かわれました。樵に扮し、我が衆もつけておりますので、忍道で鈴鹿を越えたとて然程日にちはかからぬと存じます」 「若いとは、良いの」 「それはもう。殿が白子に着く頃には、喜井の船が待ち受けていることでございましょう」  うむ、と力強く頷く将康の空いた盃に再び酒を満たすと、葛は、向かい合って座したままぼんやりとしている宗冬の隣ににじり寄った。 「若のお好きな山鳥ですよ」 「うむ」 「箸が進みませぬか」  ならばと、葛が一欠片の肉片を箸で摘み上げ、片方の手を宗冬の顎に添えた。 「はい、あーん」  たじろぎながらも、つい条件反射とばかりにほんの微かに開いた宗冬の口の中に、今だとばかりに葛が箸を突っ込んだ。困ったように葛を見つめる宗冬に、葛は優しく頷いた。 「ほら、美味しい」  口の中に、香ばしさが広がる。弾力のある肉片を噛みしめると、少し塩の味がした。 「もう、一人で食べられますね」  痩せて節の目立つ宗冬の手に箸を握らせ、包み込むように両手で挟むと、にっこりと葛が微笑んだ。母上、と思わず呟きそうになるのをグッとこらえ、宗冬は頷いた。 「宗冬よ、儂の元に来い。家中の者もお前には一目置いておるし、織田島の名は早うに捨てるが命のためでもある。三条橋でも何でも良い、森下の執念深いやり口から暫し身を隠す為にも、織田島の名は捨てよ」 「殿、その話はまだ……」 「いや、早い方が良い。あの猿めはあっという間にこの日の本を治めよるぞ。ボヤボヤしていては覇権争いに巻き込まれかねぬ。既に宗良は弾き飛ばされたわ」  宗良の織田島家継承の見込みはもう無くなっていた。それどころか、弟・笹尾丸が当主に就くための邪魔者と目され、身柄は森下派の大名の監視下に置かれていた。  箸を置いた宗冬が、ゆっくりと平伏した。 「御厚情、忝う存じます。しかしながら今は、妻の菩提を心ゆくまで葬いとうございます。今の私はただの抜け殻でお役には立てませぬ。せめて四十九日、妻子が無事に彼岸に着きましたら、必ず殿の元へ参じます」 「必ずだな」 「二言はございませぬ、お父上」 「葛、聞いたな」 「はい、確かに」  涙をこらえ、葛が宗冬の肩を優しく撫でた。 「ならば良い、良い。それで良い」  夜半には、仮眠を取った一行は戦仕度に身を固め、藤森の館を発った。蒼風と共に見送る宗冬に手を振る葛は、墨染の筒袖に軽衫、鹿皮の胴丸を着け、弓矢を背負い刀を二本落とし込んでいる。山歩きに備え、将康一行は最低限の武器以外は軽装に徹しているが、山に慣れている藤森一党は皆襲撃に備えて十分な装備を携えていた。 「ここからはもう、魑魅魍魎の住処と思召しを」 「うむ」 「伊勢はかつて、織田島の伊勢攻めにて相当数の忍衆が殲滅しております。同時に小大名も殆どが灰燼に帰しております。殿の首は格好の森下への手土産、心してくだされ」  先頭の若い衆に指示をしながら行く葛の言葉に、将康が腰の刀の収まり具合を確かめた。  武将達も一様に表情を引き締めている、というより、引き攣っていた。 「本戸様の獲物は蜻蛉切でございますね。ようお似合いです」  無言のまま緊張の面持ちで最後尾を歩く勝重に、葛が少し下がって声をかけた。 「槍の名手のお腕前、しかと学びとうございまする」  葛が優しく腕を絡めると、勝重は顔を赤らめるなり鼻息を荒くした。 「殿は某がこの名槍にて必ず御守り致す。葛殿もな」 「あら頼もしいこと、こんな三十路のババアも守ってくださるなんて」 「勘弁してくれ、あれは言葉のあやで……葛殿ほど美しい人を俺は知らぬ」 「まぁどうしましょう、嬉しい」  渾身の笑顔を勝重に向け、葛は歩調を上げて先を行く将康に並んだ。 「造作をかけるのう」  呆れ顔で詫びる将康に、葛が片目を瞑って明るくおどけてみせた。 「ああ固くなっていては、いざという時使い物になりませぬ」 「さすが玄人じゃの。いろんな意味で」 「んもう、殿はお人が悪い」  ぷんと頰を膨らませてごく自然な仕草で葛が将康の肩を撫でて行く。  甘い残り香を吸い込み、列の先頭へと走っていく葛の後ろ姿を見送りながら将康は独り言ちた。 「あれは天性の男誑しじゃの」    一行が順調に鈴鹿の峠道に差し掛かった時、赤々と日が昇った。初夏とは思えぬ強烈な日差しであった。     
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