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新所城の陽炎
何度か落ち武者狩りを斬り払い、鈴鹿の峰を越えて漸く標高が下がってくると、そこかしこに焼け落ちた山里が無残な姿を晒していた。煤けて転がる丸太の下には、放置されたままの遺骸が転がっており、酸鼻を極めていた。
一つ間違えば、藤森の里もこうなっていたのかと足をすくませる若い衆を励まし、葛は道を急いだ。
中腹を下った辺りから、一行は街道筋に戻り、歩きやすくなった道に歩む速度を上げた。
中天を過ぎた頃、一行の前に崩れ落ちた城跡が現れた。
石垣は苔むし、本丸の館跡すら残っていない。城下と思しき街並みもなく、人の気配も随分昔に失せているかのようである。
無人の筈の城の縄張りに立ち入った途端、一行は凄まじい殺気に囲まれた。
「落人狩りか」
「おそらく、犀川か幸松の残党かと」
虎口に象られている石垣の陰に将康を隠し、葛が答えた。
「犀川か……管領家にも連なる古豪であったな。そうか、ここは新所城か」
「はい。我が生家にございます」
それを聞いた一行が一斉に押し黙った。
「その方、犀川の遺児であったか」
「はい。五歳の時に峯城の幸松家と戦になり、母諸共父は自害、私は母の里である三条橋に仕える前頭目の市蔵に拾われ、こうして生き延びた次第にございます」
「野盗化したとはいえ残党を、元の家臣を斬れるか」
素直な疑問を口にした本戸を、葛が屹と睨みつけた。
「生憎、良い思い出も家中との関わりも一切ございませんので。本戸様こそ、天下の名槍・蜻蛉切が泣くことのないよう、せいぜいお働きを」
「何っ」
いきり立った勝重の足元に矢が飛来した。鬨の声と共に異様な姿の集団が石垣の上から降るようにして襲撃してきた。
「殿をお守り致せ」
藤森衆の若者が将康の身を囲み、葛が射手の方角めがけて続けざまに矢を放った。一瞬の間を突いて勝重が飛び出し、自慢の長槍を振るって第一陣の襲撃を蹴散らした。
将康を守る輪が崩され、組織だった動きを見せる攻撃に、徐々に一行は追い詰められていった。葛の矢も尽き、若い衆の刀も折れた。しかしまだ敵は数十人はいる。
空堀の中に飛び降り、堀沿いに外曲輪へと逃れた。将康の尻を押し上げるようにして斜面を駆け上がると、目の前にあの桜の古木があった。
「まだ、あったのか」
緑葉に染まる目の前の古木が、一瞬桜吹雪に覆われたかのような錯覚に、葛は思わず立ち尽くした。
『生きよ……』
母の、あの美しき桜子の姿が現れた。久しく会うことの叶わなかった幻影に、葛はそっと手を伸ばした。
「葛! 」
葛は横抱きに抱えられて地面に倒された。今まで彼が立っていた場所には数本の矢が突き刺さっている。己を抱き庇う者を見上げ、葛は悲鳴を上げた。
「碤三っ」
立ち上がった碤三の背にも、矢が刺さっていた。しかし胴丸をつけている故然程の深手ではなく、更に飛来する矢を軽々と刀で弾き飛ばしていた。
「伊勢の五ヶ所浦で修行してたらよ、奥川の連中が逃げてくるっていうから駆けつけてみたら……しっかりしろよ、ボケるにゃ早ぇぞ」
葛は自分の頰を叩いて立ち上がり、碤三に守られながら戦況を見渡した。
「本戸殿、酒匂殿、もう暫し耐えてくだされ、間も無く白子からお味方の兵が参りますぞ」
敵にも聞こえる大音声でそう叫ぶ葛に、一瞬首を傾げながらも二人は瞬時に意を察し、おお、と咆哮を上げて答えた。
「本当か」
「ハッタリも立派な武器だ」
矢が止んだ。草深い地面から立ち上る陽炎の向こうから、山賊のような出で立ちの男達が刀を振り上げて駆けてくる。葛は大刀、小刀の二刀を構え、真っ向からの斬り仕合に備え、呼吸を静かに整えた。
元は侍であろう敵の確かな太刀筋は、かえって動きが読みやすい。ひらりと舞い上がって身を反転し、着地しては二刀を振り乱して敵を殲滅していく姿は、さながら艶やかな蝶の舞姿のようである。
「だめだ、数が多すぎる」
葛と碤三の斬撃を交わした襲撃者は、真っしぐらに将康のいる物見櫓を目指していた。
奥川家の武将がそれぞれの敵に手を取られ、将康が身を隠す櫓ががら空きになったその時、銃声が轟き、物見櫓に殺到する襲撃者達が一瞬にして地面に転がった。
再び銃声。咳き込むほどの硝煙が風に消えた時、見覚えのある人馬が石垣の上に立っていた。
蒼風に跨る宗冬が、藤森の鉄砲衆を連れていた。
「若! 」
漸く、しつこい襲撃が終わり、静寂の中で葛はへたり込んだ。奥川の猛者達も大の字になって転がり、荒れた息を吐いていた。
「良かった、間に合って。この辺りは犀川と幸松の残党が野盗化していると聞いていたから、鉄砲衆を馬に乗せて駆けてきたのだ。おかげで藤森の馬小屋は空っぽだよ」
痩せこけた笑みを見せて蒼風から下りた宗冬を、葛よりも先に碤三が抱きしめた。
「紘がよ、紘が鍛錬してくれた馬達だ。どうだ、よく走るだろう」
「ああ、この蒼風に遅れを取らず、実によく走ったよ」
痩せちまって、と声を詰まらせながら、碤三はぐしゃぐしゃと宗冬の頭を撫でた。
亀山に至る頃には白子の港から迎えに出てきた政虎の兵と合流することができ、無事、一行は白子から喜井家の船に乗ることができた。船は、先に堺から紀伊半島を回って直獅郎が白子に着けていたのであった。
直獅郎との再会を喜ぶ間も無く、一行は夜の闇の中を出港していった。
白子で一晩を明かし、里の者に塩や干し魚などを贖わせて先に帰した後、宗冬と葛は新所城を再び訪れていた。
「桜子様は、ここに眠っておられるのだな」
「首を失った骸は、やがてここで土に還り、桜の花を咲かせたことでしょう」
桜の向こうでは、藤森衆の数人が木組みに大量の遺体を乗せて荼毘に付していた。
「頭、終わりました」
まだ火は燃え盛っているが、間も無く炎は弱まり、遺体は灰となって土に還ることだろう。葛は炎の前に跪き、両手を合わせて回向の経を上げた。
「仲間の遺髪は持ったか」
「はい。里で待つ家族に返します」
「良くやってくれた。先に帰っていてくれ、私は若と蒼風と帰る」
配下を見送ってふと振り返ると、宗冬が桜の古木の根元に跪き、野花を手向けていた。
「紘様の事は私の不手際、お詫びの言葉もございませぬ。この命、御存分になされませ」
宗冬の向かいに跪き、膝の前に懐剣を置いた。
「よしてくれ。私こそ、自分ばかりが苦しいと、葛の苦しみから目を逸らしていた、許して欲しい。この手もまた、誰かの家族の命を奪った手だというのに」
「勿体なきお言葉……戦国の習いとは申せ、待ち受ける地獄の沙汰が恐ろしゅうございます。業火に焼かれ無数の針に貫かれ、爪を剥がされ目玉をくり抜かれ……どんな苦しみをこの身に受けようと、多くの命を奪った罪は消えますまい」
「父と半右衛門は、そんな地獄が恐ろしゅうて、手に手を取って落ちていったのか」
葛がそっと、宗冬の両手を押し包んだ。
「里に帰ってどう生きるべきかゆっくり考えましょう。地獄にはいつでも行けますから」
「一緒に、行ってくれるのか」
「勿論ですとも。天国の紘様にお詫び申し上げてから、一緒に地獄に参りましょう」
「碤三がやきもちを妬くなぁ……良かったのか、今少しゆるりと二人で過ごしてから参れば良かったものを。久しく会うていなかったのであろう」
葛が宗冬に遠慮して、早々に白子で碤三と別れたことは解っていた。二人にとっても久しぶりの逢瀬だというのに、手を重ねることすらなく白子で別れたのである。
「腐れ縁は、会いたくない時でも会えるから腐れ縁と申します。若がお気にされることなどございませんよ」
そんな余裕すら感じさせる軽口を言うが、白子で碤三の背を見送る時の葛の横顔は、それまで見たことのない寂しげな表情であり、切ないほどに美しかった。
「会いに行ってくれ、いつでも。折角お互い生きておるのだから」
古木に再び合掌した後、ええ、と葛は頷いた。
「桜の頃にまた参ろう」
紘の四十九日の回向を終えた頃、長きに渡り宗冬と戦さ場を共にした蒼風が逝った。例年にない暑さが、盛りをとうに越えた体には堪えたと見え、食欲がなくなってから間も無く、眠るように息を引き取ったのであった。
桜の根元に埋まっているのは紘の遺髪だけである。あの混乱の中から葛が連れ帰ることができたのはそれしかなかった。道実が三条橋菩提寺での弔いを請け合ってくれたが、未だ紘と子が眠る墓には参れずにいる。故に、今はここが、宗冬が唯一紘と語り合える場所なのであった。
その場所に、蒼風の遺骨を納めた。
紘はこの里で蒼風の子孫を増やすことを試み、双子の牝馬を残してくれた。軍馬には向かぬ性格の牝馬であったが、つい一年ほど前、それぞれ雄馬を一頭ずつ産み落としていた。まだ存命だった紘は大層喜び、細々と世話について記した書付を京都から送ってよこし、里の者が忠実にそれを守りながら育てたと言う。
「蒼星、蒼雲、来てくれたのか」
姉馬から生まれたのが漆黒の蒼星、妹馬から生まれたのが鹿毛の蒼雲である。蒼星は星の輝く夜に、蒼雲は長雨の上がった青空の下に生まれたのだと言う。
まだ轡に慣れぬ仔馬を抱き寄せると、二頭は宗冬に甘えるようにして鼻を鳴らした。
「気性は蒼星の方が爺様に似ているかもしれませぬ。蒼雲は母馬に似て少し思慮深いところがあります。先月あたりから人を乗せて山歩きの訓練に入っています」
厩方の壮年の男が自慢気に言った。
「善造どの、愛情深く育ててくれていること、この子らを見ればよう解る。どうかよしなに頼む」
「勿体無い。紘様が全て教えてくださったことです。しっかり育てれば、戦さ場でも怪我をしたり無為に死んだりせずに済む。良い馬を、これからも育てます」
肩を甘噛みして甘えてくる二頭の頭を、宗冬はしっかりと抱きしめた。
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