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9.霞の京
農夫が一人、屑かごを背負って三条橋邸の裏口をうろうろしていた。何かの施しが狙いなのか、そのような浮浪者は周囲を見回すだけでもざっと数十人はいる。誰もが襤褸をまとい、中には腹をすかせて泣きわめく幼子を引き摺るようにして歩く者もいる。
森下藤吉が織田島家を掌握して家中の粛清を行った後、名を豊海秀敏と改め、瞬く間に本州をほぼ平定し大坂に巨城を築き始めていた。同時に大坂の町割りなどの整備に乗り出し、一大経済都市を作るべく各大名から資金を搾り取るように人員と金を拠出させていた。
その一方で京は戦さの爪跡も生々しく、街は荒れ果てていた。織田島家譜代の古老が所司代を務めているが、織田島家は最早有名無実。明野姫を後見に宗孝と名を改めた笹尾丸にはまだ織田島家中の金銀を動かす力はなく、ただ秀敏の言われるがままに動くしかなかった。
「たった二年余りで、織田島は消えて無くなり、森下の猿めが大坂に巨大な城を建ておった。聞けば黄金に輝く茶室が作られたとかで、まぁなんと言うか、品のないことよ」
たった二年……本能寺からたった二年で、三条橋の庭は再び荒れ放題となっていた。
「誠仁親王はいかがあそばされて」
「ここのところ気鬱のためか、塞ぎがちでのう」
つけ髭に泥だらけの顔をした農夫は、地面に跪いたまま深く頷いた。
「宗冬ならば年も近く、話し相手となろうが……」
「若は漸く奥方の死を乗り越え、近く将康様の元に参られることに」
「ではまだ藤森の里におるのか」
髪の油にも事欠くのか、後れ毛だらけの頭を扇の先で突くように、道実が思案した。
「宗冬を京へ呼べ。東宮様の元へ」
「恐れながら、若は政に関わる気はございませぬ」
「実はな、猿が九条実恒の猶子になるべく御所に働きかけておる。あんな下賤が嘘でも公家の子となるなど許しがたい。ゆえにの、奥川を引き出すことにした」
農夫が驚いたように顔を上げた。
「破竹の勢いの豊海が警戒しておるのは、他ならぬ奥川じゃ。奥川は分もわきまえておる。千年の都を金だけで壟断できぬ事、あの猿めに骨の髄まで思い知らせてやらねば」
目の前の道実が、策略と陰謀とで分家の部屋住みからここまでのし上がってきたのだと言うことを、農夫は思い出したかのように青ざめた顔で俯いた。
「おまえはこのまま私と参れ、二条御所に手筈をつける。そのむさい形では話にならぬ。奥向きに用意いたさせる故、せいぜい美粧を凝らせ、葛」
農夫に扮していた葛は、溜息とともにつけ髭を剥がした。汚れていても整った顔立ちは隠しようがない。
道実の半ば強引な策によって引き出された形となった宗冬は、立派に成長した蒼雲に跨り、晩秋の色彩に染まる山々を走り抜けてかつての自邸を訪れていた。
宗冬の案によって、ここは焼け出された子供達を救い、衣食住を与えて読み書きまで教える、言わば寮付きの学問所のように建て替えられていた。大人しい蒼雲の轡をとって門を潜ると、子育てを終えて戦働きからも身を引いた藤森衆の男女が数人、動き回る子供達を追いかけ回していた。
「これこれ、転ぶぞ」
宗冬の足元にぶつかってきた男の子を抱き止め、宗冬は身を屈めた。
「名は」
「のぶ」
「のぶか。楽しゅうしておるか」
「楽しい。じいちゃん達が餅をたらふく食わせてくれる」
「それは良い。ただし腹は壊すなよ」
迎えにきた老人の方へ子供を向かせて背中を押すと、嬌声を上げて弾かれたように走り出し、老人の腕の中に飛び込んでいった。生きていたら、紘との子もあのくらいだろうかと思いを馳せていると、老女が声をかけてきた。
「若様、お迎えもせずに失礼を」
「良いのだ。皆、ようやってくれているようだな」
「役立たずとなった年寄りに、こうして又とない働き場を与えてくださり、かたじけのう存じます」
「そなた達の知恵は又とない教本じゃ。足りないものがあれば、遠慮なく申してくれ」
そんなやりとりの合間も、蒼雲はじっと人の話を聞いているかのように鼻息ひとつ漏らさずに待っていた。
「おまえは良い子じゃの」
そんな蒼雲に幼い子らが近寄って体を撫でるが、蒼雲は子供らの頭を優しく鼻先で撫で、決して息を荒げるようなことはしなかった。
「さ、葛が痺れを切らしておろう、参るぞ」
景色がまるで変わってしまった都大路に戸惑いながら、宗冬は何とか二条御所に辿り着いた。
「これは織田島様、遠路ご苦労様にございました」
事を分けた小姓に支度部屋に通され、暫く待たされた。
二条御所の表側は半右衛門の兵と宗兵衛の兵とが戦った爪跡も生々しく、修繕に全く手が回らぬ困窮ぶりが見て取れたが、中は戦禍を免れたのか、襖も欄間も、亡き父・宗近が拘り抜いただけの意匠が凝らされ、かろうじて東宮家の格を保持していた。
衣装を持って現れた葛は、御所風のお垂髪に袿姿であった。張袴が擦れる音も艶めかしく、ゆったりとした動きで宗冬の衣装を広げた。
「本日は内々の私的なご面会にござりまする。狩衣にてお臨みなされませ」
慣れた手つきで裁着袴を脱がせた時、葛が手を止めた。
「若、あの……」
口籠る葛の目線の先には、微かな鮮血が滲んだ下帯があった。
「困ったものだな。晒しはあるか」
「用意してございます」
すぐに葛が乱箱から晒しを取り出した。宗冬は、取り替えようと手を伸ばす葛の手をそっと制し、自分で真新しい晒しを巻いた。
「いつまでもこんな世話を葛にさせるのは申し訳ない。里では自分でしていたのだから」
「私は、私は構いませぬのに」
葛が少し寂しそうな顔を見せた。
「今日会うた子供らは、何でもよう自分でやっていた。二十歳にもなった大人が己でできぬでは、笑われるであろう」
「そうでしたか、子供達にお会いになりましたか」
そう話しながらも、瞬く間に葛は宗冬を仕上げていった。
「何故、京にお出ましになられたのですか。無視してしまえばようございましたのに」
「葛がのらりくらりと伯父上の言いつけを躱してくれていたことは存じておる。困リ果てている葛の顔が浮かんだ時、伯父上から直々に京へ上れと命が届いたのじゃ」
「然様にございましたか」
「今までずっと守られてばかりであった。そろそろ、私はそなたを守る側になりたい。力はないが、せめて葛を困らせぬように気をつけたい。姉様離れをせねばの」
「若……嬉しゅうございます。しかしながらこの姉様めは、まだまだお世話して差し上げたくて仕方ありませんので、程々に、お世話されてくださいませ」
白扇を手に持たせ、葛が宗冬の胸元をポンポンと叩いた。
「何と凛々しく美しいことでしょう。都大路を、大声で自慢して歩きたいくらいです」
目元を涙で潤ませながら、葛は晴れやかな笑みを見せた。
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