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猿の下心
誠仁親王は、中庭で蹴鞠に興じていた。宗冬が欄干の側で膝を折ると、待ち侘びたとばかりに手招きをした。
「そもじ、蹴鞠は」
「不調法にございます、何卒御教授賜りますよう」
柔らかな所作で首を垂れる姿に気を良くしたか、誠仁親王は自ら宗冬の手を取って中庭に招いた。
年頃の近い二人は、夢中で鞠を追いかけながら嬌声を上げ、寒いほどの気温にも関わらず小汗をかく頃にはすっかり打ち解けていた。縁側に腰を下ろして呼吸を整えながら、並んで白湯を啜る姿は、溌剌とした生命力に満ちた若者でしかなかった。
「勘が良いのう」
「東宮さまの御教授が素晴らしいからにございます」
「久々に良い汗をかいた」
「私も、胸の憂さが晴れた気がいたします」
口の利き方を、と嗜めようとする女御を下がらせ、誠仁親王は葛に向かって椀を差し出した。優雅な手つきで白湯を注ぐ葛の仕草を、親王は眩しそうに見つめていた。
「その方も三条橋の縁と聞いた。宗冬の姉か。直答を許す」
「恐れながら、私は宗冬様にお仕えする腰元にございます」
「いえ、私の姉です。葛がいなくては、私はまともに育つこともございませんでした」
宗冬にそう言われ、嬉しそうに俯く葛の姿を見つめていた誠仁親王が深く頷いた。
「宗冬を見る目が慈愛に満ちていた。良い姉を持つそもじが羨ましい」
「東宮さまには、御立派なお父君がおあします」
「御所では、そのような人の誠が表立って交わされることはない。腹の中は野心に塗れ、私欲を満たすことに明け暮れておる。ほれ、今一人、腹の中が真っ黒な男が参ったわ」
誠仁親王の視線の先には、道実の姿と、その後をついてくる短小矮躯な中年男がいた。
「猿め、招きもせぬものを」
忌むべき言葉であるかのように吐き出し、誠仁親王は中庭から去って行ってしまった。
「これは織田島の若殿様。今日は皆様がお集まりと聞きつけ、罷り越しました」
癇に障る高音で、猿と呼ばれた男は宗冬の手前に膝をつき、恭しく首を垂れた。
「森下、いえ豊海秀敏殿」
「おお、おお、名を御存知でらっしゃるとは有難いやら面映ゆいやら」
宗冬も居住まいを正し、豊海に対峙した。
「織田島家中の仕置については、手数をかけたと聞いており申す」
「それはもう頭の固い連中ばかりでしたので、些か手こずりました。貴方様とは高田攻めの時はほんの一瞬お見かけしたばかりで、ご挨拶もままならず失礼申した」
「いえ。ところで宗良は、息災でしょうか」
顔を上げた秀敏は、ああ、と惚けるような顔をして膝を打った。
「そうであった。母御の小牧の方とですな、近江にお入り頂いとりゃあで」
わざとらしく国言葉を混ぜ、秀敏はにこにこと笑って見せた。と、その目が宗冬の横にいる葛へと動いた。途端に色を含んで歪むのを、宗冬は見逃さなかった。
「京は流石にござりますな。このような天女様にお目に掛かれるとは。名は何と申される」
見かねた道実が秀敏を促し、広間へと誘って行った。それでも振り向き様に何度も葛に下卑た笑みを向け、仕舞いには道実に手を引かれるようにして奥間へと去って行ったのであった。
「何です、あれ」
「猿殿とはよう言うたものだな……しかし油断ならぬ。葛、広間での立ち居は他の女御に任せよ。そなたは直ぐに近習の支度に戻り、私の側にいるが良い。痘痕を30ほど作って参れ」
「30で足りますかしら」
「あと、肉布団で太る」
「んもう、折角このような美しい衣を着ることができましたのに。ああ憎たらしい」
ぷりぷりと怒りながら下がっていく葛の後ろ姿を笑って見送っていると、やがて回廊の奥から小姓に伴われた将康がゆったりと歩いてくる姿に気がついた。
「これは、殿」
すぐに平伏し、宗冬は将康を迎えた。将康も宗冬の姿を見つけるなり、小姓を突き飛ばす勢いで駆け寄ってきた。
「宗冬ではないか。便りばかりで岡崎には中々顔を見せず……息災にしておったか」
「はい、無沙汰をいたし、誠に申し訳もございませぬ」
「猿めと顔を合わせることになるとは、道実公の策に嵌ったかと歯軋りしておったが、お前に会えたのなら全て帳消しじゃ」
「勿体なきお言葉にございます。殿のお健やかなご尊顔を拝し、胸が一杯でございます」
「お健やかではないがな。さ、積もる話もある。今日の儀が終わったら、どこぞで話そう」
「はい、楽しみに致しておりまする」
小姓に促され、将康は軽く手を振るようにして去って行った。その後ろ姿はかつての将康より更に威風を増し、あらゆる重圧にも屈しない王者の風格すら感じられた。
この方こそ、天下人だ。
将康の背中に向かって、宗冬は居住まいを正し、改めて平伏をした。
誠仁親王、三条橋道実、そして武家方の豊海秀敏と奥川将康、四人は宗冬の前でまるで能面を被ったかのような固い作り笑顔で時候の挨拶を交わした。
この席で誠仁親王は、京の治安回復に尽力して御所の警備に金銭を惜しまなかった将康の対応を褒め、新たに従三位の権大納言の位階を授けるよう正親町天皇に進言することを約束した。するとすかさず秀敏が、御所や三条橋を始めとする公家方の屋敷の修繕を請け負うことを約束した。誠仁親王は礼を述べるに留めたが、これは虎視眈々と位階を取りに来るだろうことを警戒しているかのような返答であった。下賤に位階など授けたくはないが、背に腹は変えられぬ、せめて朝廷の威信だけは最大限誇示しておきたい……千々に乱れる心の動きが手に取るように伝わってきた。
白々しいほどに緩慢な会話が続いた後、道実の号令を最後に接見の儀は終わった。
「奥川殿、もうすぐ大坂に城が完成いたしますでな、是非とも遊びにおいで下され。武蔵からじゃと、ちと遠いがの」
「ほう、あの、武蔵にございますか」
「先年の戦で南条を滅ぼした後、あの武蔵に誰を送るか悩んでおったが、将康殿なら人品・骨柄、政の手腕、どれをとっても適任にござる。是非とも武蔵の平定をお願い申したい」
「豊海殿たっての頼みとあらば、致し方ございませぬな」
「さすが将康殿、このような事を頼めるのは其処元だけじゃ」
褒めちぎる秀敏に、微笑んで頷く将康。口を挟むこともできずに見守る宗冬には、二人の腹の中に渦巻く真っ黒な濁流が見えるようであった。
「これは忝いお言葉。ところで奥方は息災にござりますかな。若き頃に織田島殿の城でお目にかかりましたが、お美しく聡明な方とお見受けいたしました。実に羨ましい」
将康の社交辞令に、秀敏は宗冬の背後でじっと控えている近習に目をやり、口をへの字の曲げて笑った。
「いやいや、もう40のババアでよ。さっき宗冬様の横においでだった天女様とは大違いじゃ」
「まさかまさか。大坂の奥向きを見事に仕切られておると評判にございます。流石に糟糠の妻、天下御免の御正室にございます」
「子ができなんだのが玉に瑕じゃ」
「しかしながら、御養子とされた甥御様の秀嗣様は僅か十六歳ながら英邁な若武者と聞き及びまする。これで豊海家も安泰でござろう」
既に誠仁親王と道実が退室した後も、二人は鞘当てとばかりに話に興じていた。宗冬も下がるに下がれず、仕方なく二人に従っていた。
「そういえば、先程から血の臭いが漂っておる気がしたが、まさか宗冬様、怪我でもされておるか」
真っ黒な瞳で真実を見透かすように睨まれ、宗冬は言葉を詰まらせた。
「何じゃ、蹴鞠で転びでもしたか」
助け船のような将康の言葉に、宗冬は必死に頷いた。
「それはいかぬ。あなた様は織田島家と公家衆の橋渡しなるお方、この秀敏にとっては、大恩ある織田島の上様の忘れ形見様にございます。大事になされよ」
慇懃な言葉を並べながらも、秀敏は舌舐めずりでもするかのように宗冬の全身を睨め付け、含み笑いを残して退室していった。
「殿、忝うございます」
「夜、ちと付き合え」
無表情にそれだけ言い残し、将康もさっさと辞去して行った。
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