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将康の想い
京の花街といっても今は廃墟と化し、あちらこちらに食い逸れた浮浪者が彷徨っていた。
将康に言われた通りの場所に蒼雲を伴うと、全てを飲み込んだ様子の手代が飛び出してくるなり、慣れた手つきで蒼雲の轡を取った。
「お待ちかねでございます」
まだ新しい木の香りに包まれた店構えは二階建てで、ひたすら堅固な作りでありながら瀟洒で、作事を指示した者の卓抜した感覚を思わせた。大きな入り口いっぱいに広げられている藍染の暖簾には、『茶々屋』と染め抜かれていた。
「ちゃちゃや」
「ささや、どす。京の織物は殆どウチで扱うとります。御所にも献上申し上げてますんや。おおい、こちらの若さんに早う濯ぎ持ってきてんか」
手代よりは幾分役職が上と見える長身の男は、ぼんやりと暖簾を見上げていた宗冬を招き入れ、店の来歴などを軽快に話して聞かせた。その間に、女中が濯ぎで丁寧に足を拭ってくれ、宗冬はさっぱりした気分になった。
「あ、申し遅れました、うちは番頭の三造申します。宜しゅうに」
「宗冬です。手数をかけました」
下女にも丁寧に礼を言う宗冬を、三造は眩しそうに見つめていた。街場に相応しい地味な小袖と袴姿ではあるが、その気品といい美しさといい、正に掃き溜めに鶴、であった。
三造は土間から三和土に上がって膝を折って宗冬を迎え入れ、恐れながらと、腰の刀を受け取った。その仕草にどこか覚えがあるようで、宗冬がふと首を傾げたが、三造は屈託のない笑顔で押し切るようにして宗冬を奥へと案内した。
「御免下さりませ、お連れ様のお着きどす」
どこをどう来たものか全く覚え切れぬほどに角を曲がり回廊を歩き、渡り廊下で別棟に入ってから階段を登って更に角を曲がって、おそらく別棟の中でも一番端の部屋であろう場所に、宗冬は案内された。
「通せ」
中からは確かに将康の声がした。障子を開けた向こうでは、将康が月見窓の側で盃を傾けながら、窓の向こうで夕暮れに染まる京の山々を眺めていた。
「おう、座れ座れ」
将康には小姓一人ついていなかった。筒袖に裁着袴という軽装で寛いでいた。
「失礼いたします」
宗冬が部屋に入って間も無く、女中が酒肴を持ってきた。
「呼ぶまで構うでない」
「へえ」
女はそれだけ返事をしてさっさと下がって行った。
「二条御所ではお助けいただきました」
宗冬は届いたばかりの徳利を傾け、将康に酌をした。
「どうじゃ、少しは癒えたか」
「お蔭様をもちまして。伯父が手配をしてくれた墓にも漸く参ることが叶いました」
「それは良かったのう。ところで、秀敏を何と見た」
ふと押し黙り、宗冬は将康が満たしてくれた盃を煽った。
「猛禽のような方かと」
それだけ答えると、将康は大声で笑った。
「正にそれよ、お前の見立てにに間違いはない」
橙色に染まっていた山が、闇の中に沈んだ。日が暮れ、互いの顔も見えなくなった時、突然宗冬は将康に組み敷かれた。
「殿、何を」
百戦錬磨の壮年の武将に不意を突かれ、宗冬は混乱したまま暴れたが、手足はしっかりと押さえつけられてしまっていた。幾つもの首を取った武将の力は伊達ではない。
「な、何をなさる」
将康はあっという間に袴を捲って下帯の中に手を滑り込ませてきた。宗冬が泣きながら悲鳴を上げた瞬間、その手が宗冬の秘所を捉えた。
「何と……そうであったか」
血に染まる指を引き抜き、将康が懐紙で拭った。
放心したままの宗冬の袴を整えてやり、将康は宗冬を抱き起こした。
「岡崎におった頃、おまえは月に数日、必ず遠乗りをして山中で過ごしていた。織田島の間者と示し合わせておるのかと忍につけさせておったが、其奴はどうも女の体に疎い朴念仁での。要領を得ぬまま過ごすうちに葛が参り、お前を完璧に儂の目から守り始めたで、手が出せなくなってしまった。ただ、あの頃から微かながら、疑問は持っていた」
「……酷いことをなされます」
手をついて俯いたまま、宗冬は涙を零した。
「だが妻帯したと聞き、しかも腹の子諸共失ったと聞き、男であるのは間違いないと確信したものの、今日の接見じゃ。儂も血の中で生きてきた男ゆえ、血の臭いはすぐにわかる」
将康が慣れた手つきで行燈に火を灯した。映し出されたのは、髪を乱して両手をついたままの、宗冬の哀れな姿であった。
「許せ。お前を泣かせるつもりはなかった」
「父とも、父とも慕うておりましたものを」
「それ故じゃ。可愛いお前を、あの猿めの毒牙になどかけてたまるか」
将康が声を荒げ、宗冬を抱きしめた。驚いてもがいても、離れる事は許されなかった。
「あやつはもう気付いておる。あれはとんでもない女好きで、あの明野姫も抱いたばかりか、明野姫が前夫との間にもうけた姫御まで側室にしておる。大坂城の奥向きには、既に数多の大名家や公家から集められた美女が顔を揃えておると言う。分かるか、下賤の生まれを隠すため、高貴な女子に子を産ませて豊海の跡目を継がせようと言うのだ。あやつはお前に目をつけた。織田島と三条橋という最高の血筋を持つお前をだ! 」
宗冬の頰に自らの頰を重ね、将康は慈しむように宗冬の頭を撫でた。
「お前を渡してたまるか。お前は儂の宝じゃ」
「将康様」
「岡崎に参れ。いや、直に武蔵へ下ることとなるが、共に参れ。あやつから離れ、あやつから見えぬところで生きよ、儂と」
将康の肩に、宗冬が指先を食い込ませた。しかしその痛みを甘んじて受け入れた将康は、宗冬の頸に優しく触れる様な口付けをした。
「化け物と、思し召しにはなりませなんだか」
「こんな美しいお前が化け物じゃと申すなら、喜んで食われてやろう」
「気味が悪いとは思われませぬか」
「言うておろう、可愛ゆくて仕方がないのじゃ」
子供のように、宗冬が将康の腕の中で泣いた。
「よくよく、酷い宿命を負って生まれて参ったものだな」
頭を撫でる将康に、宗冬が漸く顔を上げ、涙で瞳を潤ませたまま微笑んだ。
「出会うた人に恵まれました。いや、これはある方の受け売りでございますが」
「それは私ですかね」
突然の声に驚いて宗冬が将康から離れると、障子が開いて商家の主人と思しき人物が三つ指をついていた。
「お久しぶりです。相変わらずお可愛らしい」
声に聞き覚えが、と記憶を探る前に上げられた顔を見て、宗冬が思わず大声を出した。
「宗兵衛様! 」
「ちょっ……今は茶々屋四郎兵衛でございますので」
と最後まで言いきらぬうちに、宗兵衛は宗冬に飛びつかれて後ろ倒しに転がされた。
「嬉しいですねぇ、美男子にこんなにしてもらって」
「お元気だったのですね、良かった、良うございました」
ひとしきり泣いて再会を喜び、宗冬は両手を取って部屋に引き入れた。
「殿はご存知だったのでしょう、お人が悪い」
「ご存知も何も、こうして店を持たせて生かしてくださったのは外でもない奥川殿です。主だった臣下も家族も、助けていただきました。今は茶々屋一族と名を改めましたが、奥川殿のご恩は末代までも忘れるものではございませぬ」
改めて、宗兵衛こと四郎兵衛は、恭しく平伏した。その仕草はやはり、かつて御所と幕府とで活躍した粋人の武将のものであった。
「何とのう、お話は伺いました」
あ、と途端に宗冬が暗い顔を見せるが、四郎兵衛は軽く肩を叩き、その盃を酒で満たした。無論、軽蔑するような色はなく、むしろ既に策を練っている感さえあった。
「私も戦さ場でお会いした時に気付きました。葛さんがあの庇いようでしたからね、怖くてとても、気付いた素振りもできませんでしたが……秀敏めは甘く見ない方が良い」
「そういえば葛は如何した。あやつは一刻とておまえから離れぬものを」
宗冬は、近江八幡を領している宗良が何やら領民と画策している様子があるとの噂を聞きつけ、まずは葛が仔細を確かめに赴いたことを打ち明けた。
「宗良殿にそんなことできますかね」
素直な疑問を口にする四郎兵衛に、将康も同調すべく頷いた。
「或いは、織田島の埋み火を全て消し去る汚い策か」
将康の呟きに、宗冬は盃を取り落として立ち上がった。
「待て。葛の帰りを待ってからでも遅くはなかろう。今更秀敏が宗良を始末したところでさしたる益はない。他に狙いがあるとしか思えぬ」
「葛さん自身、ということは」
まずいことを言ったかと四郎兵衛が口を手で塞ぐより早く、その手を取って宗冬が四郎兵衛に迫った。
「どういうことですか」
「ああ……秀敏という男は、武将には珍しく衆道に全く興味はないんですがね、甥の秀嗣の方はどちらも常軌を逸しているとの噂でして。一見目元涼やかな若者で、公家衆の受けもよいのですが、如何せん、あちら方面に見境がなく、正式に養子にした当の秀敏が扱いかねている程だそうです」
絶句した宗冬は、辞儀もそこそこに部屋から飛び出していった。
「四郎兵衛、余計なことを」
「葛さんには申し訳ないけれど、ここは美しき撒き餌となって頂き、まずは秀嗣を潰してしまいましょう」
月見窓の下、眼下に広がる目抜き通りを宗冬を乗せた鹿毛馬が疾走していった。
「手はあるのか」
「細工は流々。将康様が武蔵国にお入りになる頃には、大変な事になるかと」
「そなたは真に、頭が少々切れすぎる稀代の軍師じゃ」
「それ、褒めてませんよね」
悪戯げに笑って、四郎兵衛は手を叩いた。部屋の入り口で跪く三造に、何事かを事細かに指示を出した。複雑な指示でも聞き返す事は一度もなく、三造は黙って頷くと将康に辞儀をして出ていった。その仕草もまた、かつて武将として生きていた者のそれであった。
「流石に大したものだな。あのように打てば響く家臣が、三河武士団にも欲しいものじゃ」
「直情豪快が売りですからね、三河武士は」
「その者らが、田舎が売りの武蔵に押し込められようというのだ。町割の何の役に立つのか、頭が痛いわい」
「嘘ですね。高田の残党をしっかりお隠しになってらっしゃる。彼らは治水の天才ですから、海に面した江戸城の縄張りも街ごとしっかり作り変えるでしょう」
「ほう、そこまで掴んでおったか。いや、作事は良いのだ、作事は。要は……」
「はいはい、政、ですね」
将康は大きくため息をついた。今、秀敏の元には若手の家臣団が育ちつつある。戦場育ちではなく、文官方であり、既に傘下に収まる大名の領地に飛び、検地や戸籍の作成など、例外なく統一された規格による治政の種を蒔いている。中には若造の言葉に耳を傾けぬ者、意味を解せぬ者もあり、公然と逆らってくることもある。だが、猿のやることと侮ったその者らは、やがて領地を召し上げられ、一族郎党自害の憂き目を見ることとなる。そうした見せしめの改易が二つ、三つと続けば、最早逆らおうなどという大名は消え失せる。
事実、秀嗣の奥御殿にも、各大名や公家から媚び諛うために差し出された数多の姫君や未亡人らが所狭しとひしめき合っているという。
「南条めも、扇谷上杉家と上手くやっておけば、猿に付け入られることもなかったのだ」
「大層なやっつけられぶりでしたね。将康様はじめ関東中の大名に囲まれて。当主の病で参陣が遅れた最上家などは、慌てて末の姫を秀嗣の側室に差し出したくらいですから。あ、駿河の稲川家も、四津寺家のおかげで何とか遠江一国は残してもらえましたね」
「早耳じゃの。とは申せ、儂は豊海家の政の席からは完全に外された。大阪の動きを瞬時に知る術はなくなるが、国替えとされた武蔵で好き勝手やらせてもらうまでよ」
将康の力を畏れる秀敏は、これで手足を捥いだつもりにでもなっているのだろうか。
「間も無く九州も平定される。織田島から猿に、完全に看板が掛け変わるぞ」
「ま、その後には大狸が控えてございますけどね」
遠慮のない皮肉を口にしてペロリと舌を出し、四郎兵衛は盃を煽った。
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