10.若猿

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10.若猿

 近江八幡城には、既に秀嗣(ひでつぐ)が軍を率いて入城していた。一揆を画策したなどと思いもよらぬ疑惑を向けられた宗良は、決して上座から退こうとはしなかった。 「正月には、我が叔父は九条実恒(くじょうさねつね)の猶子として正二位の内大臣となる。しかも四国も九州も東北も、この国を一つに纏めようと身を粉にして働いたのも叔父上だ。そこをどかれよ御曹司。其処元が踏ん反り返る時間は終わったのだ」  鎧姿のまま、秀嗣は上座で膝を震わせて座っている宗良に歩み寄るなり加減なく蹴倒した。隣に座していた小牧の方が悲鳴を上げて騒ぎ、宗良を庇った。 「無礼者! そなたの叔父など、上様のお引き立てなくば、今も下賤の草履取りであったに違いないわ。主家の恩を仇で返す痴れ者め! 」 「だまれ、ババァ! こちとら穢れ仕事を嫌という程やらされ、泥の中を這いつくばる思いで戦ってきたんだ。叔父貴がいなけりゃ織田島なんざ尾張の田舎もんが関の山だ」  貴公子然と端座していた秀嗣は、地金を晒すようにして喚き散らした。 「ええい、誰かこやつを成敗せいっ」  金切り声を上げて喚き散らす小牧の方の胸元に、秀嗣は容赦無く刀を突き刺した。 「は、母上」  血しぶきと共に引き抜かれた刀の刃先から鮮血が滴り落ちる。その一雫を指で救い、秀嗣はペロリと嘗めた。 「その辺のババアの血と味なんざ変わらねぇな。いいもの食ってる分、脂臭いか……うまい血ってのは、こういう奴から滴る血のことを言うんだよ」  血濡れた刀を天井へ向けて突き上げた。  同時に、轟音を立てて天板が破られ、人影が三つ舞い降りてきた。  ひらりと降り立った三つの影は、宗良の前に立ちはだかった。 「待っていたぞ」  覆面に覆われてはいるが、頭目と思しき男の顔は布越しにも整っているのがよくわかる。  三人は刃先を秀嗣に向けたまま、背中に宗良を庇いながら後退った。 「逃げ道は無い。城は全てこちらの兵で固めてある」  ひょい、と刀をそよがせ、秀嗣は頭目の男の覆面を斬り落とした。 「女、とは聞いてなかったが……成る程な、男でこれほどとは」  露わになった凄絶な美貌に、秀嗣の両目が狂気を宿して吊り上がった。獲物を見つけた狼のように唇の端から涎を垂らし、頭目の男に迫った。  宗良が、その顔を見るなり縋り付き、名前を呼んだ。 「葛、来てくれたのか。兄上か、兄上もおられるのか」  かつら、と秀嗣が反芻する。 「葛と言うのか。人間離れした美しさだと叔父貴が言っていたが、大げさではなかったな」  背中に当たった次の間への襖を葛が後ろ足で蹴り破ると、そこには宗良の妻子の惨たらしい死体が転がっていた。 「ひいいっ、泰子(やすこ)、泰子、宗勝(むねかつ)! 」  命がけで守ったであろう侍女や近習達の遺体の真ん中で、母が幼子を抱いて守るようにして事切れていた。 「織田島の血は、笹尾丸の一滴で十分。叔父貴が内大臣にさえなれば用はない。宗冬も直に叔父貴の餌食になるさ。あの人、高貴な血ってヤツが大好きでね」  秀嗣主従が面頬で顔を覆った瞬間、背後から近習が薬玉を葛の足元に投げつけて破裂させた。途端に白い粉が吹き上がり、花のような甘い香りが風に煽られて広がった。 「息を吸うな、外に出ろ」  咄嗟に顔を隠し、葛は宗良を抱いて障子ごと体当たりして回廊に転がり出た。そのまま中庭の地面にまで転がり落ちたが、立ち上がろうとしても既に膝に力が入らない。 「南蛮渡来の眠り薬とかでね。あんたは手練れだと聞いていたから」  ふらつく忍達をじわじわ追い詰め、やがて一斉に兵が槍を突き出すが、葛はそれでも螻蛄首を次々に斬り落とし、或いは蹴り上げて宗良を庇った。 「早く捕らえろよ」  葛の強さに怖気付く兵の背中を蹴り飛ばすと、鑪を踏んで間合いに突っ込むなり葛の刀の露と消えた。 「宗良、そいつを黙らせろ。言うことを聞けば、織田島に捨て扶持くらいはくれてやる。妻子の菩提を弔って、余生を静かに暮らせるだけのな」 「宗良様、甘言に惑わされますな。宗冬様が決して悪いようには致しませぬ」  後ろ手に宗良に触れると、体を震わせて戸惑っているかのようであった。まさか此の期に及んで迷っているのかと呆れた瞬間、葛の背中に鈍い衝撃が走った。  庭に敷き詰められていた白砂に、葛の背中から流れた鮮血が滴り落ちた。 「なぜ……」 「私は織田島の当主だ、家を潰すわけにはいかぬ。家さえ存続できれぱ、いつか陽の目を見ることもあろう」 「愚かな」  呻きながら、葛はその場に崩折れた。他の二人の忍は既に、眠り薬で足元が覚束ぬところを槍で貫かれ、絶命していた。 「丁重に縛り上げよ。顔には決して傷をつけるなよ。それと、ここには誰を連れて参った」  葛の苦痛に歪む頰を指先で撫でながら、秀嗣は背後の宿老に問うた。眠り薬の薬効が切れたことを確かめて面頬を取り去ったその顔は、かつての奥川将康の家臣・石川一貴であった。 「おまえの申した通りだ、薬でも使わねばとても、捕えるどころではなかったぞ」 「我が軍など、殲滅されていても可笑しゅうございませぬ」  薬と刺された傷からの出血の為に、葛は微動だにすることなく気を失っていた。 「行軍には、(まり)姫と(しず)姫を」 「最上(もがみ)の娘と、確か……ああ、九州の竜蔵洲の姫か。鞠はまだ小便臭い子供だ、葛の世話でもさせておけ。静は葛に比ぶれば悪夢に出そうな醜女だ、気が乗らぬ」 「畏まりました」  そこへ、秀敏からの早馬が届いたと近習が駆け込んできた。 「申し上げます。秀嗣様におかれましては、最上(もがみ)大館(おおだて)と組み、謀反を企む畠山(はたけやま)を討てとの御下知にございます」 「何じゃと。この城を俺のものにして好きに過ごせと言うたではないか」 「御下知に逆らう事は、甥御様とて許されませぬ。御養子とされたとは言え、正式に後継と定められた御身の上ではござらぬ事、努々お忘れめさるな」  そうであった。秀敏には子種はない、とは申せ、それとて必ず、と言うわけではない。  正室の寧子との間にも、数多いる側室の間にも、子は生まれない。しかし、まだ手つかずの若い側室もいる。万が一、子ができたなら、それが男児ならば、秀敏の喜びようは計り知れず、対して秀嗣の立場がどのようになるか想像もつかぬ。  これまで品行方正に勤め公家との橋渡し役にも徹し、ひたすら秀敏に尽くしてきたが、正直なところ、養子となった事でこれまで鬱屈してきた心が抑え切れなくなっている。ましてや正月には正三位権大納言の官位を受けることとなっているのだ。この下級足軽の家に生まれた自分がである。10歳になっても字すら読めなかった自分がである。 「秀嗣様、急ぎ御支度を」  一貴に促されるも、秀嗣は頭を振った。 「嫌じゃ、きっと叔父貴は東北に追いやって、俺を死なせる気だ。戦など俺は知らん。影武者を行かせよ、俺はここを動かん」 「それはなりませぬ。どこに上様の目が光っておるか分かりませぬ、さ、御支度を。御懸念には及びませぬ、貴方様は唯一無二の豊海の後継。それだけに、誰も文句を言えぬ程の華々しい手柄を土産に、堂々と正三位につけて差し上げたいとの親心にございましょう」  秀嗣の目の前で、近習がぐったりとした葛を持ち上げようと背中に手を差し込んだ拍子に顔が触れるほどに近付いてしまった。余りの美しい寝顔に一瞬目を奪われた近習を、秀嗣は奇声を上げて斬り捨ててしまった。 「秀嗣様、なりません」 「……いつまで叔父貴に踊らされねはならぬのだ。もう嫌じゃ。ここで、葛と共に過ごしたい、美しいものだけに囲まれて、静かに過ごしたい」 「ならば、奥羽への行軍にこの者を連れて行けばよろしい」  わかった、と諦めたようにぼんやりと呟く秀嗣に、放って置かれたままの宗良が叫んだ。 「私は、私はどうなるのだ! 」 「……首を刎ねて大手門に晒しておけ」 「バカな! 」  命乞いを喚き続ける宗良の悲壮な声を背中で聞きながら、秀嗣は刀に血ぶりをくれた。  行かねばならぬが、行きたくはない。もう、逃げ出してしまいたい。 「岐阜に寄る。叔父上に会いたい」  秀敏の姉夫婦つまり秀嗣の両親は、尾張で半士半農のような暮らしを立てていた。  一度は秀敏が手にした城で一緒に暮らしたこともあったが、傅かれることに慣れなかった母は、利発だった一人息子の秀嗣の将来を秀敏に託し、夫と二人して生まれ故郷に帰ってしまったのである。一流の師の元での修練を強要する秀敏から逃げる秀嗣をいつも庇ってくれたのが、秀敏の末弟で豊海の家宰の役割を果たしていた秀貞(ひでさだ)であった。母や叔父と同じ兄弟でありながら、物腰が柔らかく、教養深く、武芸にも通じ、他の武将達からも一目置かれる程に才長けた人物である。唯一秀嗣が心を許せる身内であった。     
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