家族

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 5年ぶりになるだろうか、宗冬はあの白糸の滝にやって来ていた。  滝壺では、蒼星が気持ちよさそうに水を飲んでいた。 「宗冬」  懐かしい滝壺近くに蒼雲を進めると、杣小屋のある高台から、碤三が崖を飛び降りるようにして河原に降り立ち、蒼雲の背中から眠ったままの葛を受け取った。 「来てくれたのか、蒼星と」 「恋女房の一大事だからな」  大柄な碤三が抱き上げるとするりと覆っていた被衣が落ちた。露わになった葛の裸体はまるで白蛇そのものである。華奢な体つきが強調され、流れる黒髪が隠す胸元には、本当に乳房があるのではと惑わされる。 「南蛮の薬を嗅がされているそうだ」  蒼雲から降りた宗冬が、そっと被衣で裸体を包み、顔にかかる黒髪を掻き分けた。苦痛に満ちた顔からは険が消え、いつも通りの穏やかな美しさに戻っていた。 「碤三の腕の中だと分かるのだな。安心したような顔をしている」 「葛には俺がついている。おまえ、近江八幡に行きたいんだろ」 「ああ。宗良と小牧の母を懇ろに供養したい」 「行ってこい。こいつは俺が看ているから」  頷いて、宗冬は滝壺を見た。あの頃と全く変わらない、穏やかな水の糸が岩肌から流れ落ちている。ところどころ凍ってはいるが、今日の穏やかな陽光に照らされ、水面はキラキラと輝いている。  ここでの四人の暮らしの記憶は、これまでもずっと宗冬の心を温め続けて来た。ここでのあの幸せな時間があったからこそ、ここまで生きてこられたのだ。 「気をつけて行けよ」 「ああ。何か精のつくものを贖って戻る」  宗冬は蒼星に跨り、白糸の滝を後にした。  杣小屋で火を起こし、碤三は葛の体に幾重にも毛皮を被せてやった。 「逞しくなりやがったな、あの小僧」  碤三は幼い頃に戦で焼け出され、市蔵に拾われて散々に戦働きをして手を汚し、修羅場でしか呼吸をしたことがない程に血に塗れていた。同じ頃に拾われてきた葛の美しさは、そんな汚れた毎日の中に見出した光明であった。市蔵に穢されていると知った後も、葛の美しさや神々しさに陰りはなかった。いつでも眩しくて、憧れるほどに強かった。葛を守れる男になることこそが、若き頃の碤三の生きる目的になっていた。  ここで紘や宗冬と家族のように暮らし、葛とは真実、夫婦になった。こうしてここで息を吸うだけで、あの頃感じた温かな空気を体に満たすことができる。 「もう、離れたりしねぇよ」  隻眼の不利を克服する為の修行に明け暮れる間に、大事な宝玉が傷つけられてしまった。  眠ったままの葛の頰を撫でながら、碤三は離れていたことを何度も詫びたのだった。  蒼雲を休め、蒼星を飛ばして、宗冬は近江に戻った。  関ヶ原あたりの雪道を物ともせず、巨体を身軽に風に同化させて、蒼星はよく走った。 近江八幡の城下は、近江商人達が街を形成し、大層賑わっていた。少し離れた農村部でも、冬でありながら田畑の手入れが行き届き、山の木々の枝打ちも丁寧に施されている。  戦では余り役に立つことのなかった宗良だったが、治政には力を発揮していたことが伺える。父・宗近は、正にこうした文官を求めていた筈だったのだ。何という皮肉か。    夕刻に近江八幡城に着くと、数頭の馬が大手門に繋がれていた。少し離れた林の中に蒼星を待たせ、宗冬は注意深く大手門に近づいた。  宗良の首が晒されていた練塀はまだ血の跡が残り、すぐ下の矢狭間まで錆色に染まっていた。  葛が連れ去られた事を知り焦っていた宗冬には、晒されている宗良と小牧の方の首を先ずは下ろし、中庭に放置されていた遺骸と共に大広間に安置することしかできなかった。  人の声がした。それも聞き慣れた胴間声である。 「宗冬様! 」  すると、本丸曲輪の築山に穴を掘っていた若者が、泥だらけの顔を綻ばせて手を振って来た。御殿の中庭を抜けて築山へと向かうと、他に本戸勝重や酒匂清重の姿もあった。 「政虎殿」  屈託無く出迎えたのは、喜井政虎(きいまさとら)である。宗冬より幾つか年下のこの若者は、戦場では常に羨望の眼差しで宗冬の姿を追いかけていた。高田攻めの頃よりも一回り体つきが逞しくなったようにも見えた。 「皆様、弟達の為に……一騎当千の強者にこのような事をして頂き、感謝の言葉もございませぬ」  一同に向け、宗冬は一心に頭を下げた。  宗良ら城主家族は、既に城下の寺に遺体が運ばれ、懇ろに葬られたという。今彼らが埋葬しているのは、城内で惨殺された家臣達の遺体であった。  築山に向かって膝を折り、宗冬は数珠を握りしめて経を唱えた。 「殿の命でな。武蔵へ向かう前にここへ寄れと言われたのだ」  経を唱え終えた宗冬に、同じく手を合わせていた本戸が、胴間声で種明かしをした。 「然様でございましたか。心より御礼申し上げます」 「で、その、葛殿は」  その名を遠慮気味に口にした勝重を、政虎がからかうように肘で突いた。 「無事です。岐阜の秀貞様がお助けくださり、今は夫の元におります」 「え、夫、夫って……じゃ、やはり葛殿はその、女、いや、そんな筈は……」  宗冬の話に混乱する勝重の様子に、むしろ宗冬の方が困惑した。 「ちょっと本戸様、あんな綺麗な人ですよ、夫の一人や二人、いたって可笑しくはないですって。宗冬様、あの人でしょ、新所城で助けに入った隻眼の色男」 「色男というより大男だけど……ええ、まぁ」 「ほら、諦めたほうがいいですよ。あの二人はお似合いですもん」 「だけど、要は、男と男で……」  槍の名手、三河の虎とまで言われた男には、理解の埒外であった。 「葛と碤三は、幼い頃から深い絆で繋がっております。平時は頭目と小頭ですが、一度刀を置くと、心配性の女房と、女房にベタ惚れの世話好きな夫なのでございます」 「へえ、本当に愛し合っているんですねぇ、戦国のこの時代に羨ましい限りです」 「私はあの二人に守られ、育てられました。掛け替えのない兄姉であり、親のようでもあります。二人がいつも想い合って共に居られるのなら、こんなに幸せなことはありません」  三人の三河武士が、爽やかに吹き抜ける寒風に暫し身を預けて瞑目した。 「皆様の、将康様のおかげで、大切な姉を失わずに済みました」  泥だらけの髭面を汗と涙で濡らし、勝重がおいおいと泣いた。  政虎達と別れた後、城下の圓滿寺の住職が二つ返事で弔いを引き受けたと聞いていた宗冬は、何某かの金子を手に蒼星と訪れた。  身分を明かして丁重に礼を述べる宗冬の前に、住職は真新しい位牌を並べた。 「御家族ご一緒に、荼毘に付しました」 「御礼の言葉もございませぬ」  宗冬は、宗良の位牌を押し抱いた。  力丸と名乗り、あの白糸の滝に突如として現れた頼りなげな弟。初めて会ったというのに、血が繋がっているというだけで愛しさが込み上げたあの瞬間を、今でも思い出す。 「宗良様は、それはもう領民に慕われておりました」 「では、一揆の噂というのは」 「とんでもないことにございます。検地や刀狩とて、宗良様は決して苛烈なことはなさらず、農民達の苦衷にもよう耳を傾けてくださった。用水路を整備し、城下を整備し、商人も農民も楽しく己の分を発揮できるよう、常に心を砕いて下された。お父君は何をされるのにも独断で苛烈なお方だったようだが、宗良様は違った」 「そうでしたか。弟をそのように……忝のうございます」  5歳ほどの小僧が危うい手元で茶を捧げ持ち、宗冬の膝元に置いた。有難うと礼を言うと、照れたように頬を染めて俯いた。その姿が可愛らしく、宗冬は名を訪ねた。 「可宗と申します」  かそう、そう反芻する宗冬に、住職は得たりと頷いた。 「下がっておれ」  そして小僧を下がらせると、住職は一口茶を啜り、大きく息を吐いた。 「宗良様の御次男にございます。御長男とは双子にて、本当のお名は可良様と」 「よしなが……我が甥でしたか」 「しかしながら当人はそのことを覚えておりませぬ。ただ一人だけでも無事に織田島の血脈を受け継いで欲しいと、かつて宗良様は3歳にもならぬあの子を拙僧に託されました」  宗冬は黙って頷いた。そして、腰の千子正重を膝の前に置いた。 「御住職、あの子を宜しくお願いいたします。これは亡き父より拝領の千子正重の一振り。あの子の行く末に金子が生じることがありましたら、これを金に変えてもよし、何某かにお役立てください」 「いや、そのような貴重な品を……」 「祖父から孫への贈り物と、思し召しくだされ」 「宜しいのですか」 「決しておまえは一人ではないと、伝えたいのです」  住職は刀を捧げ持ち、深々と頭を下げた。  後にこの可良の子孫は、高家として織田島の名を後世に残していくこととなる。
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