12.女の武器

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12.女の武器

 年が改まり、大阪では、男児誕生に城中が沸き返っていた。  生母である莉里(りり)姫は、明野が最初の夫である明智廉造(あけちれんぞう)との間に設けた長女である。とはいえまだ十八になったばかり。秀敏は本能寺の変以来、笹尾丸に織田島家督を継がせることに汲々としていた明野(あけの)を手元に置いて贅沢に浸しただけではなく、美濃守護の名門・土岐(とき)家の血筋を継いだ莉里姫を、力ずくで側室にしたのであった。  とはいえ、20人以上いる側室の誰もがこれまで全く孕まなかったのである。最も訝ったのは、糟糠の妻である寧子(ねいこ)であった。 「お方様、殿下はこの北の御殿に莉里姫と若君を住まわせるおつもりのようです」  北の館と呼ばれる本丸の奥御殿の離れで、寧子は若き頃から付き従っていた侍女の話を苦々しい思いで聞いていた。 「真に、殿下の胤か」  秀敏は新たに内大臣となり、臣下に『殿下』と呼ばせるようになっていた。だから成り上がりの田舎者と謗られるのだと、いくら諭しても聞く耳を持たなかった。 「確かに、殿下はここ一年は莉里姫様に御執心、それはもう……ただ、お生まれになった和子様は、恐れながらその……」 「整っておったか、猿面ではなく」  ずばりと言い当てて、寧子は笑った。先年四十を超えてから太りだし、すっかり秀敏からは女扱いされなくなってしまった。だが、手塩にかけて育てた子供たちは立派な武将に育ち、『おかか様』と慕って何くれとなく気にかけてくれる。 「この手で育てたあの子たちこそ、我が子であるというのに……血の繋がりばかりに囚われて、実を見失うておられる」 「然様にございます」 「とにかく調べよ。秀嗣を廃嫡にして和子を立てるというのなら、真実殿下のお胤でのうてはならぬ」 「明野様はそれはもう、莉里姫様の御身辺に厳しく目を光らせておいでとか。迂闊には近寄れませぬ」 「城中の莉里姫に、正面切って「お胤ですか」などと尋ねる阿呆はおるまいよ。あの子は和子が無事に百日を過ぎるまで、殿下にも誕生を知らせずに人知れず城の外で過ごして参ったのじゃぞ。必ず産所となった隠れ場所がある筈じゃ、探せ。何としても秀嗣と妻妾らを助けてやらねばならぬ」  秀嗣は大坂に連行されても直ぐには処罰されなかった。赤子がまだどれほど健康に育つかも解らぬため、一応、生かされているのだった。京での秀嗣の屋敷である充楽邸に押し込めとなり、妻妾一同、厳しい監視下に置かれていた。 「出入りの商人、医者、全て洗い出すのじゃ。それと、直獅郎様にお茶のお招きをな」  寧子は京の伏見に小さな庵を結んでいた。この大阪からも程近く、今や政所などと大仰な身分になってしまった自分が纏う重たい鎧を、誰に遠慮することもなく脱ぎ捨てることのできる場所であった。  伏見の小高い丘の中腹に、その小さな庵はあった。伏見稲荷の縁日ともなれば、子供達の嬌声が響き渡る。子供に恵まれなかった寧子だが、子供の明るい声に包まれるのは嫌いではなかった。 「お待たせを致しました」  質素な躙り口から、女房姿の喜井(きい)直獅郎(なおしろう)が手をついて茶室に入った。 「船が時化で遅れまして、斯様に遅参を致しました。お許しを」  とはいえ、ここで待たされたのは、せいぜい三日というところである。 「そのような女姿の貴女様を見るのは久しぶりにございますね」 「甥の政虎にも妻子ができまして、全てを任せることができました。やっと、獅尾(しお)の姿に戻ることができました」 「獅尾さま、ようお戻りになられました」  直獅郎いや獅尾とは、秀敏が武将の嗜みとして茶を覚えるようになった時、堺で出会ったのであった。まだその頃は男装であり、堺の商人に足元を見られていた秀敏に茶の手ほどきをしたのが、当時直獅郎を名乗っていた獅尾であった。女同士とわかり、寧子は秀敏の悪い虫が起きぬよう、堺に行く時は可能な限り付き添って睨みを効かせたのであった。  寧子が主人となり、獅尾に茶を点てた。大らかで温かみのある寧子の所作を、獅尾は堪能していた。 「貴女様のような方をお大切になされば、要らぬ圧力で埋み火を広げることもありますまいに」  「やはり、世間の広い獅尾様は見通されておいでですね。ここだけの話ですが、豊海に先はないと存じます。夫は性急に過ぎました。ここのところの大名への苛烈な仕置は、後継への焦りの現れ。哲学も美学も持たぬ欲尽くめの貧乏上がりが権力の頂点に座すと、本当にろくなことはございませんね。長浜の城持ち大名だった頃が一番幸せでした」 「いっそ貴女様が大坂城の天守に座られては」 「まぁ、それ楽しそうね」 「男共を顎で扱き使ってやりましょうよ」 「それ良いわ。それ、そこのおまえ、馬におなり」 「あら、跨ってしまうの、やだそれ最高! 」 「どうせなら水も滴る男前がいいわぁ。猿面はもう沢山よ」 「それ言い過ぎ! 」  けらけらと、二人は屈託なく笑った。何のわだかまりとてない、腹の底を知り合う者同士ならではの、底抜けに明るい笑いであった。  ふと、躙り口が開き、細面の男が手をついて入ってきた。笑いを止めた寧子が表情を固め、獅尾に目顔で問うた。 「元は伊勢の地侍だったそうですが、食い詰めて京の街をふらついていましたところ、やんごとなき姫君の御一行に拾われたのだそうです」 「何のお話でしょうか」 「その姫様というのが、殿下の閨から逃れたいがために病気と称して京の妙顕寺(みょうけんじ)城に御籠もりになっていた莉里姫、と申したら」 「まさか」  寧子は察しの悪い女ではない。獅尾が何を言おうとしているか、直ぐに察した。何より、端で平伏している男の容姿である。うっかり手を伸ばしたくなるような端正な顔立ちで、ほっそりとした体格ながら所作は柔らかくそつがない。何より、その細くしなやかな長い指が、色気を湛えて妙に柔らかな動きをするのである。頽廃、その一言だけで男のまとう雰囲気を表現するに十分である。 「殿下のお渡りもあったそうですから、必ずとは言えませぬが」 「その方、名は」  寧子は男に問うた。男は顔を上げると少し翳を感じさせるように微笑み、ゆったりと唇を動かした。 「理一郎、とお呼びくださいまし」  りいちろう、そう繰り返す寧子に、理一郎と名乗った男は嬉しそうに笑った。 「獅尾様、この者を何故私に」 「この者の存在が知られれば、明野様も殿下も必ず口を封じようとなされます。何故なら莉里姫はこの男の事を明野様にも話されておりません。隙を見て私の知り合いの元に逃げ込んできましたものを、寧子様の誼に縋って連れて参りました。豊海は寧子様が殿下と手を取り合い、苦労に苦労を重ねて築き上げて参られたお家。後から来た女にかき回され、足元を掬われるようなことになってはなりませぬ。秀嗣様をお救いする切り札にもなりましょう。寧子様ならば、必ずやこの者を活かしてくださると信じます」  獅尾はいつでも遠くを見ている。いつの間にか堺で力をつけ、貿易商として外界へ乗り出した獅尾の感覚は、女のそれを、いや、こんな小さな国で刀を振り回してちょろちょろ動き回っている男共の了見をも、遥かに凌駕している。決して短くはない付き合いの中で、さんざんに獅尾に目を開かれてきた寧子である。獅尾が、ただ自分を助けるためにこんな男娼まがいの男を連れてきたわけではないことくらいは察しがつく。伊達に貧乏所帯からここまでになったわけではない。ここは夫と喧嘩をしてみるか……寧子は頷いた。 「分かりました、お預かりいたしましょう。とはいえ大阪に連れて帰るわけにはいきませぬ。私の里である浅山家の弟が、この度近江八幡に入封することとなりました。添え状を書きます故、直ぐに行きなされ」  理一郎は深々と平伏した。 「私からも御礼申し上げます、寧子様」 「礼を申すは私の方。お心遣いに感謝申し上げますよ、獅尾姫様」 「御武運を。あなた様ならきっと御勝ちになられます」  まるで確信したかのように、獅尾は男を置いたまま出て行ってしまった。  添え状を書く間、理一郎は膝がつく程の距離に座り、いつの間にか寧子の膝に手を置いていた。男日照りの40女は簡単に落とせるとでも思っているのかと、腹立たしい気持ちを抑え、寧子は出来上がった添え状を理一郎に手渡すと、礼も聞かぬうちに立ち去った。 「ふん、ババァが。男日照りのくせに」  やせ我慢をしやがってと毒づき、理一郎は書状を袂に仕舞った。    
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