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13.出立
白糸の滝を見下ろす林道をぐるりと回り、宗冬は小さな庵に蒼星を止め、荷を下ろした。
庵の中には火の気もなく、葛が寝ている筈の床も片付けられていた。起きられるようになったのだと、弾かれたように滝壺が見える斜面に駆け出た。
さらさらと柔らかな水音に包まれる中、河原には燦々と日差しが降り注いでいた。冬にしては暖かな日で、葛と碤三が焚き火の側にいるのが見えた。声を掛けようと息を吸ったが、あまりに美しい情景に、宗冬は言葉を呑み込んだ。
大きな流木に腰を下ろす葛は、碤三の鈍色の着流しに身を包み、熱心に何かを縫っている。その背中に立つ碤三は、丹念に葛の髪を梳き、時折手元の縫物を覗き込んだ。揺らすなとでも言われたのか、ちょっと膨らませた葛の頰に碤三も頰をすり寄せた。自然に、二人の唇が重なる。何度も何度も啄ばむように唇を吸って、穏やかな笑顔を交わす……。
見つめる宗冬の頰には、いつしか幾筋もの涙が伝っていた。
あのような平穏な暮らしを、二人はこれまでただの一刻とて過ごしたことはなく、ひたすら修羅の中に身を置いて戦い続けてきたのだ。自分と関わらなければ、あの二人はこれからも、あのような美しい時間を過ごす事ができるのだ。
もう、発たなくてはならない。己の道は己一人で歩まねばならない。二度と、愛し合う二人からあの美しい時間を奪ってはならない。葛の幸せを、奪ってはならない。
「葛……刀を置いてくれ。私はもう、行くから」
碤三の腕の中で、これからの人生を穏やかに、葛自身の為だけに過ごして欲しい。
「ありがとう、ありがとう……許してくれ」
感謝と詫びとを繰り返しながら、宗冬は蹲って泣いた。二人に悟られないように、声を殺し、歯を食いしばり、泣いた。
そんな宗冬を気にかけるように、どこからともなく蒼雲が側にやってきて、震えている宗冬の背中を鼻で突いた。その鼻先を抱きしめてひとしきり泣くと、その背にひらりと飛び乗り、宗冬は手綱を握った。
「折角蒼星と会えたというのに、すまぬな、蒼雲」
名残にもう一度二人の姿を、と河原を見下ろすと、そこに二人の姿はなかった。
蒼雲に乗って出立しようとする宗冬の後ろ姿に、葛が縋るように手を伸ばした。
宗冬が帰ってきたのが分かり、二人して庵に駆け上がってみれば、宗冬は荷下ろしだけしてさっさと蒼雲に跨ってしまった。
名残惜しそうに河原を見下ろす宗冬の背中は、泣いているのか、小刻みに震えていた。
行くつもりなのだと二人は瞬時に悟った。
咄嗟に追い縋ろうと踏み出す葛を、碤三が背中から抱き止めたのであった。
「もう行かせてやれ。ちゃあんと巣立できる男に、おまえは立派に育てたんだよ」
「でも、若は紘も宗良様も失ったのだ。たったお一人でこの乱世の渦の中に送り出すなど、私にはできぬ」
「あの伝説の織田島宗冬だぞ、大丈夫だ。第一、あいつは人に愛される」
「碤三」
抱きとめていた碤三の両腕からするりと零れ落ちるように、葛は力なく座り込んだ。
南蛮薬の後遺症か、まだ身体中が思うように動かない。少しずつ細々としたことはできるようになってきているが、とても刀を振り回して敵と戦うなどという荒技ができる状態ではない。今自分が動いても、碤三に手数をかけ、宗冬の足を引っ張ることしかできぬであろうことは、葛自身が一番よく解っていた。
「行かせることしか、できぬのか」
「藤森の連中がいつでも陰ながら守っている。変わった事があれば繋ぎもつく。どうにも危ねぇって時は、俺が行く」
葛は激しく頭を振った。
「……生まれる前からお世話申し上げてきたのだ」
「そうだな」
「若の為なら、何でもして差し上げたい。まだ、まだして差し上げたいのに」
「そうだな」
「手離すなど、嫌だ、離れるのは、嫌だ! 」
わぁ、と声を張り上げて、葛は子供のように泣いた。常に己を律し、宗冬を最優先に考え、己の心を押し殺してきた葛が、地面に両手をついて全てを吐き出すように泣いた。
「よしよし、泣け泣け。俺しか聞いちゃいねぇから」
うわぁと泣き叫ぶ葛の背中を優しく摩りながら、碤三は、小さくなる宗冬の背中に幸あれと拳を叩きつける思いで見送った。
蒼雲の走りに任せ、宗冬は幼い頃から側に居続けてくれた葛の、あの美しい姿ばかりを思い起こしていた。血に染まって戦う姿ではない。困った時には必ず傍にいて助けてくれた、あの観音様のような微笑みを、である。そして剣を、乗馬を、学問を、作法を、全てをこの身に授けてくれた。だからこそ人質として盥回しにされながらも、己を見失うことなく誇りを蹂躙されることもなく、戦さ場で手柄を立てて居場所を得る事ができたのだ。
いつしか蒼雲の足はゆるりと、遠江の街道を流していた。道から見渡せる山々の美しき景色を見せて、宗冬を力付けようとでも言うのか。その気遣いが愛しく、宗冬は蒼雲の首を優しく撫でた。
こんな風に馬と心を通わせる事ができるのも、葛が馬との付き合い方を教えてくれたからだ。道具ではなく、信頼する相棒と思え、と。手綱の握り方一つ、鐙のつけ方一つ、全て、葛が愛情を持って仕込んでくれた。
「これ程の深い愛を、私は知らない」
それを授けてくれた時の、あの美しく優しい仕草一つ一つを辿り、宗冬は堪らず蒼雲から飛び降りた。そして居住まいを正して山々に向かって平伏をした。
感謝という感謝、礼という礼を、そして家族としての限りない愛を、葛に……。
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