脱出

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        脱出

   大広間の下座に、澪丸は瞑目したまま座していた。上座にはまだ誰もおらず、小姓一人とて見当たらない。膝の上に亡き母の形見である篠笛を乗せたまま、ただじっと、待ち続けていた。 「兄上はまだか」  と、そこへ相賢が普段着姿でのんびりと入ってきた。 「これは相賢殿」  片手をつき、澪丸は頭を下げた。相賢はバタバタと大仰に足音を立て、上座の手前にどっかりと腰を据えた。 「篠笛の音色、時折我が屋敷にも届いておったぞ。葛がのう、いたく其の方のことを案じておってな。確かに兄上はちょっと気難しいところがおありだが、とって食いはしない。私もおる故、心おきのう、聞かせるが良いぞ」 「有難きお心遣い、誠にかたじけのう存じまする」  定勲にはこの城に来た時に一度だけ会ったのみで、好まぬ印象を抱いたに過ぎぬが、目の前の相賢の人好きのする大らかな物言いやのんびりとした笑顔は、異母弟とはいえ到底血が繋がっているとは思えぬ対極の姿であった。 「それにしても遅いな、兄上は」 「何か、出来致したのでしょうか」  澪丸が不安を口にした時であった。数人の慌ただしい足音がもつれ合うようにして近づいてきたかと思えば、額や肩口から夥しい血を流す若い家臣が二人、駆け込んできた。 「相賢様、お逃げくだされ!」  のんびりと二人を眺めていた相賢の足元に這うようにして近づき、その袂を掴んで叫んだ。 「定勲様ご謀反、大殿・相勲様が討ち取られました! 」  既に笛を袂に仕舞い込み、澪丸は懐剣の柄頭(つかがしら)に手を置いていた。 「な、なんじゃと」 「美濃の土岐家との婚姻に反対の意を唱えた大殿を……若殿が! 既に土岐家の軍勢二千が城下に布陣の由」  とにかく立たせようとする家臣に促され、相賢はよろよろと立ち上がった。 「相賢様、どうぞ落ちられよ。母君の里でもどこでもよろしい」  まだ子供の澪丸に促され、がくがくと頷きながら相賢が広間から出ようとしたその拍子に、廊下側から長槍が突き出され、相賢の腹部を貫いた。 「相賢殿! 」  獲物は懐剣一振り。上段の間へと後じさりながら、血染めの長槍をしごく直垂姿の男に刃先を向けた。 「弟を手にかけたか、外道」  酷薄な笑みを浮かべて迫るのは、間違いなく油井定勲である。蛇のような三白眼を澪丸に貼り付かせ、真っ赤な唇でニタリと笑った。 「美貌の人質ゆえ可愛がってやろうかと思うたが、織田島め、離縁した依姫の実家・高田家と示し合わせて軍を向けおったわ。非情よのう、倅の命など屁とも思うておらぬのよ」 澪丸は耳を疑った。高田玄道が軍を向けるのは想定内としても、父までがこの多治見城に軍を向けたというのか。それはつまり、自分が死んでも、いや、自分を殺すつもりか……。 「若、讒言に惑わされますな」  切っ先を下ろそうとした澪丸に、若々しい男の声で檄が飛んだ。  その声と共に定勲が従えていた槍隊の兵がばたばたと倒れ、覆面に黒装束の忍が澪丸を背に庇うように立ち塞がった。細身だが背の高いその後ろ姿からは、いつも親しんでいる香りがした。思わず、澪丸は背中に手を添えた。 「葛か」 「潮時でございます。織田島の殿は、決して若の命を粗略にされたのではございませぬ。思いの外早く、土岐家とこの男が動いただけのこと。多治見の城下さえ離れれば、本陣は指呼(しこ)の間、殿がお待ちにございます」  かちゃかちゃと不気味な音を立てて、後続の兵が迫ってくる気配がした。葛は定勲を睨みつつ間を取り、澪丸を片手で抱き上げるなり上段の間の天井へと放り投げた。 「碤三、行け」 「引き受けた」  天井の板目を外して待っていた碤三がはっしと澪丸の体を掴み上げ、直ぐに姿を消した。  
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