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獅尾姫
遠江の街道も城下が近くなるにつけ物々しくなっていた。時折、稲川の旗印をつけた兵が数人単位で通り過ぎていく。
だが、粗末な小袖と裁着袴で旅塵にまみれた宗冬を見咎める者はなかった。
「そう言えば、稲川家は駿府を取られ、遠江一国に国替えとなったと言っていたな」
駿府は、武蔵に転封した将康への牽制に、豊海の子飼である加藤清隆が入封していた。
一旦は家中を収めたものの、一五八四年に秀敏が南条を総攻めにする際に駿河城を前衛基地として差し出さなかった事で怒りを買っていた。これは頼素生母である多喜が、草履取り上がりと蔑み一向に首を縦に振らず、領内の支城を含め開城が遅れたためである。止む無く秀敏は小田原城の眼前に新たに一夜城を築かねばならない羽目になった。秀敏につくか南条につくかで大名達の動向を図っていた時だけに、秀敏の稲川への評価は地に落ちた。焦った多喜が実家の四津寺家に泣きつき、京での秀敏の業務場所として妙顕寺城を提供し、甥の秀嗣の為にも御所近くの土地を提供して充楽邸を建設できるよう、九条家を通して御所に働きかけた事で、翌年には何とか遠江一国を堅持して今に至っている。
「そうだ、喜井谷へ参ろう。無沙汰を詫びなくてはならぬ」
将康の母方の実家・水山家の領地となった三河岡崎の山岳地帯から、浜松方面へ街道を南下し、引佐の街から東へ脇往還に入り、喜井谷を目指した。
喜井谷に着くと、丁度直獅郎が堺から戻ったばかりだという事で、すぐに館に通してもらう事ができた。
座敷で座して待っていると、艶やかな女物の小袖に身を包んだ直獅郎が笑顔で現れるなり、宗冬の手を取って再会を喜んだ。
「お久しゅうござります、ようご無事で。皆様息災ですか」
「はい、将康様の伊賀越えの折は、何かとお手数をおかけいたしました。直獅郎様にお世話になりながら長のご無沙汰、どうぞお許しくださりませ」
「いいえいいえ。よう訪ねてくださいました。あ、今は獅尾でございます。どうぞ獅尾と」
幾分、声も艶やかになったように感じていると、獅尾が頭を下げたままの宗冬の顔を下から覗き込んできた。
「泣きましたね」
「え」
「解っております。私、こう見えても喜井谷の主ですよ。喜井にも情報をもたらす忍のような者達がおりますから、粗方は、掴んでおります。そうだ、茶を進ぜましょう」
獅尾は宗冬の手を引いて奥の間に引き連れた。
かつて、伏兵を潜ませていたあの背中越しの奥の間は、今は炉が切られ、茶の湯を楽しめるような長閑な作りに変わっていた。
「政虎が将康様から城をひとつ頂戴いたしましてね。喜井の主だった者はあちらに行き、ここは私の私領、言わば私の大好きな趣味に囲まれた場所になりました。刀やら鉄砲やら、物騒なものも見当たりませんでしょう」
「どことのう長閑に思えたのは、そういうことでしたか」
そうこうするうちに、獅尾は鮮やかな手並みで茶を点て、宗冬に差し出した。
「こうして心安く頂くのは初めてです」
「いつもは駆け引き事で気が張り詰め、茶の味もわからなかったでしょう」
「はい……美味にございます」
作法通りに喫して茶碗を置き、宗冬は礼を述べた。
「葛様のお仕込み、雅な所作です。あの方は本当に、底知れぬ方ですね。全てを兼ね備えておられて、ええ、あの神がかった美しさも。玉に瑕と申せば、子離れできないところ」
子とは自分のことだろうと、宗冬は苦笑いをした。
「でも、なさったのね。それで良いと存じますよ。あの方はもう、ご自分の幸せの中だけでお過ごしになれば良い。それも大威張りで」
「はい、仰る通りです」
「ご立派なご子息を持たれて、幸せなお方です」
「子息……あのう、せめて弟でお願いします。三十路と連呼しただけで、三河の本戸様は本気で殺されそうになったと慄いておられましたから」
あらやだ、と獅尾は声を上げて屈託無く笑った。女らしくなったと宗冬が眩しそうに見つめていると、獅尾はちょっと恥ずかし気に口元を手で隠した。
「嫌ですね、大口開けたりして。私も、こう見えて愛しい人と巡り会いました。海で死に別れましたけど、愛し愛された時間は、失われるものではありません。私という人間の一部として、こうして生きておりますから」
葛からの深い愛も色褪せることは決してないと言われたようで、宗冬は心が温まるのを感じた。両手を胸元に添え、何度でも心の中で葛の名を呼んだ。
「そうそう、私、茶々屋の四郎兵衛様とは懇意にさせて頂いております」
「宗……四郎兵衛様とですか」
「ええ、そして、将康様も、です」
「それが、何か」
「聞きました。岐阜で鞠姫様をお助けになられたとか。無事に江戸にお入りになられ、最上家にも密かに知らせが届き、いたく感謝されたとのこと。奥羽の大大名である最上家が奥川についたことで、奥羽の混乱は加速度的に収まるでしょう。大館家の姫と奥川家若君との婚儀もまとまりつつあります。将康様は着々と奥羽諸侯と手を結ばれておられます」
「それはようございました」
手元で獅尾が棗を弄び、暫し言葉を選ぶように押し黙った。顔を上げた獅尾の瞳は、かつての直獅郎の果断さを以って宗冬を真っ直ぐに捉えた。
「今すぐ江戸へ行かれませ。将康様がお待ちです」
江戸、と宗冬は小さく呟いた。行こうと思いながら、どこかに躊躇いもあったのだ。
「豊海の政権は長くは続きません、やり方が下品に過ぎたのです。既に水面下では色々な策が動き始めておりますが、それもこれも、秀敏が権力を極めてからというもの、耄碌したかのように力にしがみつき、後継選びの為に多くの無辜の血を流そうとしているからです。戦さ場ではなく、無辜の民の血を欲し始めたら、もう終いです」
あと少しで、本当の戦のない世が訪れるのではないか……将康がその頂に立つ日が近いのではとの己の勘に後生を託すように、宗冬は心を決めた。
「今なら、何のために戦うか、わかります。葛が穏やかに夫と過ごせるために、私は今一度、将康様の元で戦いとうございます」
「よう申されました。やはりあなた様は孝行息子です」
「いや、ですから……」
弟でしたね、と言い直し、獅尾はころころと明るく笑ったのであった。
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