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酸鼻
既に城下は土岐家の軍勢による乱取りによって混乱を極めていた。留守を預かる女子供の悲鳴が業火の中に轟き、正に地獄絵図であった。
碤三は澪丸を背負い、その上から濡れた麻布を覆い被せ、配下に前後を守らせながら炎の中を疾駆した。城を出るときは数十人いた配下も、織田島家の本陣を見下ろせる城下外れの丘に辿り着いたときは、僅か二名になっていた。
「ひとまず、これへ」
織田島軍の縄張り下にあることを確かめ、碤三は背中から澪丸を下ろした。どさりと落とされた拍子に、澪丸は胃の中のものを全てぶちまけてしまった。
「ずっと揺れておったからな、無理もあるまい」
息を切らしたまま、碤三は手巾を差し出した。が、それを受け取る気力もない様子で、澪丸は乾いた土の上に転がった。
「葛は、葛は如何したであろうか」
「死にはせんよ。あいつは殺しても死ぬ奴ではない」
蒼白な顔で案じる澪丸の横に、碤三も手足を大の字に広げて転がった。
「その方は大した力じゃ。私を背負って数里走り抜けても、そのように然程息も上がっておらぬ。私はまだまだ鍛錬が足りぬ。これでは葛を守れまい」
「ほう、あいつを」
「守れぬまでも、足手まといにだけはなりとうない」
へえ、と鼻を鳴らした碤三が、ふと刀を取って体を起こした。問いかけようとした澪丸の口を塞ぎ、雑木林の奥に蠢く気配を探った。かさりと葉音がし、碤三が刀を抜いたと同時に、黒装束の男が飛び出してきた。
「無事だったか」
警戒を解いた碤三の言葉に頷いたその男は、頭を振りながら顔を覆っていた覆面を外して大きく息を吸い込んだ。
確かに男の体型なのだが、忍び装束に包まれたその体の線は何とも細い。しかしながら、戦いの最中で切り刻まれて裂かれた布地の奥では、鍛え抜かれた筋肉が血に染まっている。
碤三と軽口を交わすその顔は、返り血に染まっていてもやはり整っていて、胸板さえ見えなくば男の女装にも女の男装にも見える。澪丸は、今まで見たことのない葛の、いや、おそらく葛であろう男の姿を、首を傾げたまま見つめていた。
「若、お怪我はございませぬか」
体を起こして葛を見つめていた澪丸は、じっとその切れ長の双眸を見据えたまま何も答えない。固まったようにただ見つめてくるだけの澪丸の様子に、恐怖のあまり声も出せなくなってしまったかと、葛は嗚咽を堪えるようにして抱きしめた。
「碤三が何か怖い目に合わせましたか」
「おいっ」
「碤三に何か意地悪をされたのですか」
「葛よ、それはなかろう」
耳元で囁かれる言葉も、中身を全て吐き出してしまった胃の腑を優しく包み込むかのような、優しい男声である。心地よい響きに、澪丸は目を閉じた。
「これが、本当の葛であったのじゃな。ああ、この香り、間違い無い」
うっとりと呟く澪丸の言葉に、思わず葛が碤三と顔を見合わせた。
「おまえ、男だって言ってなかったのか」
「いや、とうにお分かりなのだとばかり……」
「まぁ、実は女なんじゃ無いかって思うくらい完璧だったからなぁ」
「阿呆」
腕の中で、澪丸は猫が甘えるように、鼻をこすりつけて気持ち良さそうな声を出した。
「いけません、私の血がお顔に」
「構わぬ。心地よいのじゃ」
「まぁ、9歳にもおなりですのに、小さなお子様に戻ってしまわれましたか」
「だって葛が好きじゃもの」
無邪気にそう告げる澪丸を、葛はきつく抱きしめた。
「葛も、若の事が大好きでございますよ」
葛の腕の中にすっぽりと収まったまま、澪丸はやがて寝息を立て始めた。
「安心したのだな、おまえの香りを嗅いで」
「不謹慎だが、どうにも可愛らしゅうてならぬ」
「俺にはおまえが血染めの菩薩様に見えるぜ、それもとびきり別嬪のよ。で、どうする」
「さて、な」
「小童には笑って見せたが、あちこちやられてんだろ。そのなりじゃ侍女のフリもできやしねぇ」
右脇腹の矢傷からはまだ血が流れ出ている。痛みを堪える葛に、碤三は自らの袖口を破り投げ渡した。
「縛っておけ」
「そうしたいが、実は左肩を酷く打ち付けていて、手が回せない」
「しょうがねぇなぁ」
痛みに顔を歪める葛から布端を取り上げ、血染めの腰にしっかり巻いた。傷口の上で縛ると存外どこまでも食い込み、見た目以上に胴回りが細いことに絶句した。
「ちゃんと食ってんのか。折れそうだぞ」
「細いとはいえ男の体格で女を演じるのだ、鍛え方を間違えるとすぐに大女になってしまう。食事、稽古、これでも随分と気を使ってきたのだ」
「酷なもんだな。ならばいっそ、侍女じゃなくて小姓として側に仕えることにしたら」
「小姓として上がるには煩雑な手続きがある。何より織田島の殿の厳しい監視下に入ることとなるのだ。侍女ならば、城下への買い物、届け物、出入りは比較的容易であるし、若に最も近いところでお守りできる」
「メシを我慢してもか」
話にならぬとばかりに、葛はため息をついた。すると膝元で澪丸が寝返りを打った。ふっくらとした頰を指先で撫でる葛の表情は、打って変わって優しげな母のそれであった。
「碤三……あの織田島の殿に、澪丸様をお戻しして良いと思うか」
復命を迷う言葉を吐く葛の指先は、愛しげに澪丸を撫で続けている。
「御次男が本陣にいると聞いた、初陣であろう。いよいよ後継として御次男を推し出すおつもりに違いない」
「澪丸を、切るというのか。ま、あの殿ならやりかねんがな。だとしたら葛よ、こいつの存在はどうなる。またぞろ他家に人質として遣られるというのか」
その問いには答えず、葛は手を伸ばして刀を確かめた。鐺は凹み、血振りをしたものの刃にはべっとりと脂が浮かんでいる。刃毀れも酷く、今ここで碤三とふざけて刀を合わせただけでも真っ二つに折れるであろう。
「無腰で澪丸は守れまい」
「ああ」
「織田島の殿はまだ、尾張・美濃とも制圧は完全ではない。まだ若に利用価値はある。人質は気の毒でもあるが、若ならどこでも可愛がってもらえる。むしろ、もう少し若が戦える様になるまで、せいぜい他家の金で逞しく育ててもらえばいいのさ」
「碤三」
「可愛い可愛い若殿を、こんな片田舎で終わらせるのか」
逡巡する葛を鼻で笑いながら碤三が澪丸を抱き上げ、咄嗟に手を伸ばした葛の手を払いのけるとそのまま丘の斜面を歩き出した。
「待て碤三」
「待たない。早く復命せぬと抜け忍として追われることになるぞ。まずは一度お頭の指示を仰げ。こんな小童ではまだ何も仕掛けられないこと、おまえが一番分かっている筈だ。防戦一方でボロボロになって野垂れ死ぬのか、この小童と一緒に」
「待てと言っている」
葛は碤三の鼻先に回り込み、強引に澪丸を取り上げた。
「私がお連れする。お前のぞんざいな歩き方では若が眠れまい」
腕の中ですやすやと眠る澪丸の寝顔に、葛がそっと頬を寄せた。
「いい加減にしろよ、こんな小童のために。そんな義理は無ぇだろうがよ。大体がお前だって三条橋の血筋なんだ、こんな小童に使われることはないんだよ」
地団駄を踏んで思わず叫んでしまった碤三の唇に、葛がそっと口付けた。途端に碤三の口内は血の臭いに満たされた。そして葛が唇を離した途端腹部に衝撃を受け、碤三は吐き気を堪えるかの様に体を折った。
「嫁を探せ、私ではない誰かを。血の臭いのせぬ可愛い嫁をな」
明け方になり、織田島宗近の本陣近くの荷駄の一角に、身を縮めて眠る澪丸の姿が発見された。乱取りに明け暮れる土岐勢を一掃して戻ってきた宗近は、一命を取り留めた嫡男を一顧だにすることはなく、澪丸よりほんの数ヶ月後に生まれた次男・滝王丸を連れて多治見城総攻撃の為に陣を払った。
1572年、多治見城はあっけなく落ちた。甲斐・信濃の高田家は十分に遺恨を晴らして土岐家に奪われていた旧領を取り戻し、宗近は油井家の遺臣を手厚く家中に迎え、先鋒として間をおかずに土岐家を攻めた。元々当代の土岐興冬はまだ30手前と若く、享楽的で凡庸であり、同世代の油井定勲の誘いに何の疑いもなくのってしまうような人物であった。亡父の旧臣たちとも折り合いが悪く、美濃守護職とは名ばかりの家中であった。
油井家遺臣の呼びかけに呼応した土岐家の重臣の離反が相次ぎ、土岐家は徐々に追い込まれ、居城の稲葉山城を残すのみとなった。
多治見城が織田島家の勢力下となり、美濃守護職・土岐家はあっけなく織田島宗近に制圧された。元より家臣の足並みはそろわず、油井定勲と手を結んで乗っ取りを企んだ折の乱取りぶりは酸鼻を極め、守護職としての地位を貶めるには十分であった。
織田島宗近は次男・滝王丸と三男・力丸そして二人の生母である小牧の方を、美濃に程近い馬寄城に置き、美濃制圧の足掛かりとした。
しかし、初陣の時に多治見城下の惨たらしい有様を目にした滝王丸は徐々に体調を崩し、土岐興冬が家臣によって毒殺された1573年、多治見戦の翌年に、あっけなく病死してしまった。享年わずか10歳。
宗近は土岐興冬の一族を殲滅し、ただ一人生き残った異母妹の明野姫を側室に迎えていた。その年、明野姫は既に25。かつて土岐家家臣・明智満兼に嫁いでいたが、明智一党が離反して美濃東部を収める西道家に与したため、離縁されて実家の土岐家に戻っていたのであった。
翌年、その明野姫が男児を出産した。由緒正しき土岐家の血を引く男児の誕生である。
織田島家に戻って2年後、11歳で漸く初陣を許された澪丸は、同時に元服して宗冬と名乗った。それも、父・宗近は元服の儀に顔を見せることもなく、元より家臣の強い勧めがなくては実現とてしなかったであろう、たった一人での儀式であった。
美濃守護職を手に入れるためには公家・三条橋家との繋がりを断つわけには行かないと言い募る重臣の意見を無下にできぬまま、宗近は清洲城に宗冬を置いてはいるものの、美濃・越前・近江攻略を理由に、宗近自身は馬寄城に篭りきりであった。
そして1574年、美濃と近江を抑えた織田島宗近は西道家とも手を結び、さらに駿河の稲川家を牽制すべく、稲川家傘下の小大名・岡崎の奥川家に宗冬を送ることを決めたのだった。
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