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3.三河の月
三河は岡崎城下から北東に広がる山中、清流に沿うように続く道を人馬が疾駆していた。
小柄な鹿毛馬は、木の枝や岩場などおよそ人の踏み入れぬ険しき道を物ともせず、慣れた道を散歩でもするかのような軽い足取りで水の流れに沿って駆け上がっていく。
やがて、馬がようやく通れるほどの山道から、人馬は穏やかな流れの河原に降り立つべく斜面を駆け下りた。
川の流れは山中にしては穏やかであるが、ふと見上げると扇状に立ち塞がる岩壁があり、そこかしこからさらさらと水の糸が垂れ込めていた。まさに地元の者が白糸と呼ぶに相応しき、穏やかで優しい水音を立てる滝であった。
鹿毛馬を木にも繋がずに好きにさせたまま、背から飛び降りた若衆風の人物はもどかしげに着物を脱ぎ捨て、まるで汚れから逃れるようにして腰の高さほど水嵩しかない滝壺に身を屈めた。
元結が切れてほつれた長い髪が水面に広がる。しかし髪の持ち主は顔まで沈めたまま動かなかった。
すると、川の水を美味しそうに飲んでいた筈の馬が嘶いた。滅多に声を上げることのない大人しい馬の声に、滝壺に身を沈めていた人物が立ち上がった。
「蒼風、いかがした」
視線の先には、武将と思しき豪奢な身なりの若者が黒毛馬の手綱を握って立ち尽くしていた。
「何者か」
滝壺から誰何する声が緑に木霊する。
「いや馬に水を飲ませようと下り立った……驚かせるつもりはなかった」
腹からよく響く若々しい声で、黒毛馬の男が応えた。
「まさか、女性がいようとは……失礼した」
女性と言われ、滝壺に立ち尽くしたままの人物はふと自分の姿を見た。
水面に映るのは、白い肌が陽光に反射した柔らかな裸体。濡れた黒髪が胸元を覆うように垂れこめ、下半身は水に沈んでいる。その水の中にひょろりと、股の間から赤い魚が泳いで消えた。
「そのようにじろじろと見据えながら、無礼も何もなかろう。近在の公達か」
水音に溶け込むような澄んだ声ながら、女のものとは言い切れぬ声で問われ、若侍は慌てて滝壺に背を向けた。
「わ、私は公達などと大層な者ではないが……伊那、伊那小四郎と申す。この辺りには時折遠乗りにやって参る」
「ほう、伊那殿、でございますか」
「こちらは名乗った。おことも名乗られよ」
ふふ、と笑いを漏らし、滝壺の人物は再び首まで体を水の中に沈めた。
「白糸、とでも申しておきましょう」
からかうような答えに、小四郎も背中を向けたまま笑った。
「では白糸どの、もう上がられては如何か。小暑の陽気とは申せ、体を冷やすであろう」
「あなた様が去られたら、上がることも叶いましょう」
再び、滝壺の人物の周りに赤い魚がひょろりと現れては消えた。水の中の糸のように、ひょろり、ひょろりと、現れてはすぐに消えていく。
「行ってくださらねば、私は風邪をひきます」
「今一度、神々しいあなたの姿が見たい」
「おやめなされませ、曇りなきあなたの目が穢れましょう。さぁ、白糸の精が機嫌を損ねれば、慣れた道とて怪我をします、お早く」
伊那小四郎と名乗った若侍は、意を決したように振り返り、黒毛馬の手綱を放して一歩踏み出した。
「私と、共に参らぬか。白糸の精はそなた自身であろう。私はもう、そなたの姿が目に焼き付いて離れぬ。心を奪われてしもうた」
もう一歩、滝壺へ進もうとしたその足元に、風を切り裂くように飛んできた苦無が突き刺さった。
「な、なんじゃ」
滝壺の人物は最早何も応えず、小四郎に背を向けた。尚も進もうと試みる小四郎の足元には今一つ、苦無が突き刺さった。
そろりと刀を抜いた小四郎が振り向きざま一閃すると、黒の筒袖と裁着袴にぶっ裂羽織をまとった長身痩躯の人物が、まともに両刃の忍刀で太刀筋を受け止めた。
「忍か」
恐ろしく整った目元だけを出し、全身を黒で覆い隠したその忍は、軽々と小四郎の頭上を飛び越えて滝壺を背に庇うように立ち塞がった。
「害すつもりなどない、刀を引け」
しかし、忍は敵意を剥き出しにしたまま、今にも斬りかかろうと足元の砂利に体重をかけている。
「わかった。ここは私が引く故、とにかく水から上がってくれ。縁があれば、また会いたい。またここで、会いたい」
忍の殺気を超えるように滝壺に向かって叫ぶと、小四郎は刀を仕舞い、黒毛馬に跨って河原から去っていった。
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