多治見の悪夢

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       多治見の悪夢

   遡ること4年前……。  あの多治見城下で、葛が澪丸から離れたのはほんの一瞬であった。本陣に近づく為、町屋の女の着物を奪おうと忍び込んだ民家に、思いもよらぬ人物が待っていたのであった。  咄嗟に刀を抜いて斬りかかる葛の太刀筋を容易に躱し、その胸元に強烈な蹴りを見舞って葛を吹き飛ばした。ボロ布のような体に強烈な一撃をくらい、葛は体を折り曲げながら血反吐を吐いた。 「まるでささらだな、そんな役立たずの刀で戦うつもりだったか」  幼い頃から聞き馴染んだ声に葛は息を飲んだ。束の間差し込んできた乱取りの炎に照らされたのは、藤森衆頭目・藤森市蔵の皮肉めいた顔であった。 「お頭」 「澪丸はどうした」  その問いに不穏な響きを感じ取った葛は、荷駄隊の片隅に澪丸を隠していることを告げてはならぬと本能的に悟った。 「敢え無く、御落命に」  すると、菰包みに腰を下ろしたまま、市蔵が喉を鳴らすようにクックッと含み笑いを見せた。本能的に刀を握るものの、血脂に塗れ飴のように曲がっている刀では着物一つ断つことなどできない。 「追い込まれるとそのように顔に出る。幼い頃のままだな、葛」 「こ、ここで何を」 「三条橋家とは手切れだ。あの貧乏公家め、報酬を渋りおった。それどころか新たに御所の御殿忍を使うと言い出しおったわ。さんざんこき使っておきながら、地縁を持たぬ根無し草は簡単に裏切るなどと言い放ちおった」  そうではあるまいと、葛が呆れたように血なまぐさい唾を吐き捨てた。 「お頭、耄碌するには早かろう」 「なんじゃと」 「お頭は藤森の頭で満足する手合いではない。大方、織田島の殿と三条橋の殿を、天秤にかけたのであろうよ。よりによって天下の策謀家二人をだ。道実様が凡庸な貴族でないことは先刻承知の筈。澪丸様を盾に脅しすかしたとて、乗ってくるほど呑気な方ではない」 「それはどうかな。三条橋家ではここのところ不幸が続いている。道実の幼い息子が立て続けに亡くなり、近衛家にようやく嫁がせていた異腹の妹もあっけなく病死した。あの魑魅魍魎の住処である紫宸殿(ししんでん)でせっかく頭角を現したとて、家を継ぐ者がおらぬ」  市蔵がゆらりと立ち上がった。乱取りで隣の民家が燃え始めたか、二人のいる室内を赤く照らした。市蔵の足元には夥しい血を流したまま絶命している老夫婦の遺体が転がっていた。 「流れる血は、どれも臭気が酷くて叶わぬ、高貴も下賤もないわ。それでも世の中は、血筋などというものを大層有り難がる。織田島が澪丸を見限るなら都合が良い。その血筋とやらを旗印に、我ら一門立ち上がるのだ」 「くだらぬ」  既に二人の周りは殺気に満ちている。粗末な土壁を突き破り、いつでも葛の横腹に刃先が突き刺さるであろう。市蔵配下が息を潜めているのを察しながらも、最早無腰同然の葛には斬り抜ける術がない。  葛が逡巡したほんの一瞬の隙をつき、市蔵が間合いを一気に詰めて葛の体を土壁に押し付けた。そして左手で葛の細首を押さえつけると、乱暴に唇を重ねてきた。歯を食いしばって抵抗する葛だか、下腹部を触れられて膝の力を失った。幼い頃に奪われてからの度重なるおぞましい記憶は、ただでさえ傷だらけの五体に残る微かな抵抗力も殺した。  市蔵はいつものように葛の奥に宿る母・桜子の面影を嬲るような目をしている。 「お前の姿を見るとまともでおられぬ私に、なおもそのような媚態を魅せるとは」  嫌だ、そう口で抗いながらも、関節をしっかりと押さえつけられ微動だにできない。横たわる葛に抵抗する力が無いことを確かめた市蔵は、ゆっくりとその体に纏わり付いていた着物の残骸を剥がしていった。 「私と共に参れ、参ると申せ。おまえはどう転んでも、私のものだ」  自分がその手で鍛えた若い体を蹂躙(じゅうりん)する倒錯に酔い、市蔵は己の配下とは異質の殺気が迫っていることに気づかぬまま夢中で葛に食らいついていた。 「……あなたは所詮、母への痴情を私で満たしているだけだ。拾ってもらった恩で差し出してきたが、もう、返してもらおう」 「返す、だと」 「私自身に、この体も魂も返してもらう。私は決して母ではない」  言葉は抵抗しても、手練れの市蔵に争う力はない。返り血を浴びたままの頰を涙が伝い、赤い水となって首筋を濡らした。その赤い水を執拗に舐め取りながら、市蔵が強引に葛の中へ押し入ろうとした時、どん、と衝撃が伝わった。 「てめぇ、何泣いてやがんだよ」  渾身の力で体を捩り、葛は市蔵の下から這い出した。鋼のように分厚い胴板には、深々と刀が刺さっていた。そしてその悪口を浴びせた人物は、足で背中を押さえつけて刀を抜き取ると、事切れた市蔵の体を乱暴に蹴り飛ばした。 「孤児を拾って飯を食わせるまでは良いが……所詮外道だな、忍なんてものは」 「碤三……」 「嫌だったんだ、この野郎がいつもおまえを玩具にするのが。何でその手で斬らなかったんだよ、何やかんやと言って、惚れてたのか」  嫌味を繰り出す碤三に、葛は駄々を捏ねる子供のように首を何度も振った。 「くそッ、俺がいるのを解ってて、人任せにしやがって。俺だってちったぁ恩義に感じてたんだぞ、おまえを嬲る姿を見るまでは」  無様に泣きじゃくる葛の腕を引っ張って立ち上がらせようとするが、葛は膝に力が入らぬとばかりにぺたりと座り込んでしまった。 「立てぬ」 「囲まれてんの、解ってんだろ」 「もう良い。おまえは逃げてくれ」 「馬鹿野郎、こんな下衆野郎にはまんまと抱かせるくせに、俺には指一本触らせねぇじゃん。俺のものになるまで、死なせてたまるかよ」  碤三は脇差を腰から抜き取り、葛に押しつけた。 「蹂躙された悪夢は終わりだ。泣くな、立て」  はっしと刀を受け取った葛は、乱暴に腕で涙をぬぐい、碤三の肘にしがみつくようにしてよろりと立ち上がった。 「あの小童の元に戻りたいなら、斬り抜けろ。いいか、俺は一生抜け忍なんて真っ平御免だ。しっかり戦っておまえが頭になれ、それしか生き残る法は無ぇ」  土壁を蹴って外に飛び出した碤三は、相手の姿も見ぬままに殺気を向けてくる敵を誰彼構わず斬りつけた。  後を追うように這い出た葛の首元に、背後から忍刀の刃先が貼りついた。 「俺ら孤児にとって頭は恩人だ、どんな外道でもな」  市蔵には、特に目をかけて手元で養育をしている若い一団が常に付き従っていた。だが、市蔵が別格の扱いをする葛と折り合うことはなかった。同様に、小頭格で抜きん出た腕を持ち、既に配下をも持つ碤三もまた彼らとは相容れず、不毛に手柄を争うことも一度や二度ではなかった。 「すまぬが、戻らねばならぬ」   碤三から借りた刀を握りしめ、葛は手から離れぬように切れ端でぐるぐる巻きに縛り付けた。一太刀、二太刀と斬り合わせたところで、息を乱して地に手をついてしまった。 「葛、立て! 」  乱れる息の下から頷きつつ、手近にあった小石をむんずと掴んで滅茶苦茶に投げつけた。 「所詮、貴様はお頭の玩具でしかない木偶の坊。無様なものだ」  額から血を流しながら渾身の斬撃を仕掛けてきた男の懐に転げこみ、葛はその心の臓に深々と刀を突き立てた。  どうと仰向けに倒れて絶命した仲間の姿に、若い一団はたじろいた。 「刀を引けって! 」  尚も食い下がる若い忍を蹴り飛ばし、碤三は大声を張り上げた。その勢いに、ふと殺気が緩んだ。最早命令遂行の意味も見失い狼狽する一団を、碤三は睨め回した。 「もう、自分の意思で生きていいんだよ。拾われたことを恩義になんて感じることは無い。自由に行け。俺と葛と共に行く者はついてこい。但し後ろ盾も報酬も心許ないのは確かだ。それでもよければな」  仰向けに引っ繰り返り、顎を突き出すようにして息を乱している葛を起こし、肩を貸しつつ碤三は歩き出した。不用意に背を向ける二人に、最早切っ先を向ける者はいなかった。    急いで織田島家の荷駄隊の詰所に戻った時、既に澪丸の姿は消えていた。奥の陣屋から、炊き出しを請け負う女達が慌てて走り回る様子が聞こえ、碤三の肩にもたれたまま潜んでいた葛は思わず声を上げそうになった。 「よせ、もう澪丸は俺達の手を離れた」  叫ぼうとした途端に口元を手で塞がれ、葛は忌々しげに払い落とした。 「勝手なことを申すな。離れぬと誓うたのだ」 「そんな体で何の役に立つ。あの様子では、澪丸が織田島の若様だということも知れたのであろう、ならば粗略には扱われ無ぇ」 「しかし」 「何と言ってあの人だかりに姿を見せるつもりだ。男か、女か、勝算もなく飛び出してどうするんだ」 「でも……」 「おまえ、面倒くせぇ奴だったっけ」  舌打ちしながら手刀を葛の細い首筋に叩きつけ、くたりと崩折れた葛を碤三がその太い両腕で抱き上げ、そのまま多治見城下を後にしたのであった。
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