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シャワーのあと、続けて幾度か出るクシャミというものが、肇子は気になっていた。
花粉症というのでもないらしく、クシャミは不意にやって来て、肇子を悩ませる。
「けっこう、かわいげのないクシャミの仕方するかもな、きみって」
数日前にも、数男から、言われた。
「そう、かしら? それって、どんな?」
「なんだかさ、控えめなようでいて、そうでもない。といって、笑っちゃうほどにぎやかでもない」
「注文がうるさいのね」
「そうかなぁ。オレは滅多にクシャミなんかしないけどね」
「だったら、お別れする?」
「性急だな」
「お別れは、しないわ」
「同感」
かわいげのないクシャミ、か。
言ってくれるじゃないのよ、と肇子は数男を怨みたくなるが、
「風邪をお引きあそばした子猫ちゃんでもあるまいし、わたしは、頭のてっぺんやおアゴの下を撫で撫でしてもらえそうな、オシャレなクシャミなんて出来やしないわ」と強がってもみせた。
数男は、えへんとエラそうな笑い方をして、
「きみが、好きだよ。そんな、きみがね」
と返した。
都心の物流会社で経理の仕事をしている肇子は、学生時代の友人から、ある日飲み会に誘われ、そこで数男を知った。
イケる口の肇子は、遠慮せずガガーッと一息にグラスのビールを空ける。
その様子を見て、
「あなたの飲みっぷり、オレって、好きだなぁ」と隣りの席から、数男は目を細めて子供のような顔をして褒め、
「ところで、経理のお仕事なんてされてるそうですが、0から9までの数字で、どれが一番アルコール好きの数だと思いますか?」とヘンな質問などしてくる。
「あーら、わかりません」と答えをもとめる肇子に、
「オレもわかんない。今、急に思いついたゴ質問を全く急にしてしまいました。ゴメン」と数男はやっぱり眼を細めて子供のような顔をして謝り、肇子に負けじとガガーッとビールを飲み干す。
そんなぐあい、最初から気取らず軽口が利ける感じがなかなかよかった。
それから、たびたび2人だけでも会ったりする仲になった。
そんな数男に、肇子は村越を紹介された。
村越は、数男の会社の同僚で、彼らは同期入社の間柄だった。
ライバル同士ではある様子だが、仲は悪くない、と数男から聞いていた。
1ヵ月ほど前、3人そろっての飲み会で、会社の人間関係の愚痴を吐いた数男に、村越が反論した。数男が非難する上司のことを、しかし、村越は庇う。
「根はいい人だよ」「そうでもないさ」――何やら、そのうち白熱して、言い争いのようなことになった。
あらあら、どうしましょうと肇子はハラハラして、あ、なんだかクシャミが出そう、と切ない気持になりかかった時、
「いやいやオレって、言い過ぎたよ」「いや、こっちこそ」と二人はさっきまでの争いはなんだったのよと言いたくなるような呆気ない仲なおりの仕方をして、お開きとなった。
居酒屋を出ると、三人そろってタクシーに乗り、肇子が最初に降りた。
「――きみのこと、好きだってさ。村越がね」
住まいに戻って、少し落ち着いた頃、数男が電話で伝えてきた。
「あーら、ありがと」と受け流す振りをしてみせる肇子に、
マジらしいぜ、と数男は真面目な声で続けた。
「いいのかしら?」
「なにが?」
「村越さんとお付き合いして……」
「オレは妬いたりしないよ」
言ってくれるじゃあないのよ、とその時も肇子は、くしゃみが出そうになったがガマンして、こんな感じで、別の異性と付き合ってみるのも悪くないかしら、と気持を引き立ててみたくなるようなところもあった。
翌日、「会いませんか、今度は二人だけで」と村越から誘いの電話が来た。肇子は断らなかった。そうやって、村越との付き合いが始まった。
村越はなかなかの紳士であったのかもしれない。始めのうち1週間に1度会っていたのがすぐにも2度3度となったが、手一つ握ってきたりはしない。
「清潔なお付き合いが続いていてよ」
報告する肇子を、
「セ、セイケツ?」
数男は半笑いの顔で、肇子の頬を撫でて、そして、抓った。
付き合い始めて、程なくしての休日、肇子は村越の家に招かれた。
一人暮らしの部屋は、きちんと掃除が行き届き、数男のそれとはやっぱり違うと肇子は感じ入った。
村越は、かんたんな手料理なども振る舞ってくれた。ビールやワインを味わいながら、嫌味の無い冗談などにも、肇子はすなおに笑うことが出来た。
しかし、そのうち、ふっと異臭めいたものを感じて、肇子は「えッ?」と少し表情を変えた。
「実はですねえ」と村越はイタズラっ子のような顔になって、
「隣りの部屋に、イイ人がいるんですよ」と打ち明け話めかせて言ったのだった。
「だ、誰ですか?」
「それがー。我が恋人のようでもあり、我が子のようでもあり、とにかく、いとしくってならないんですよ」
村越は、自分の両耳を手先で握って、ピンと立てる。
「あー、それって」
カンが鈍くもないらしい肇子は、両耳を手で抓んで立てた。
案内されるまま、そっちは書斎ですなどと村越が言うところの部屋に入ると、
ウサギが1羽、ちいさなケージの中にいた。
ウサギは虚ろな目をして、飼い主を見る。肇子には反応を示さない。
「季節の変わり目ごとに、元気がなくなりましてね。いつも風邪を引いたみたいなことになるんです。ひっきりなしに、鼻をモグモグさせて、いたいけっていうか」
「じゃあ、夏が終わる頃には……治っちゃう?」
「そうなってくれればいいんですが、これでも、けっこうトシが行ってましてね。戦々恐々の心境です。そう、クシャミ一つされても、心配でして……」
村越はウサギを真似るように虚ろなまなざしを宙に向けた。
それから、表情を変えないまま、ふっと肇子の手を握り、それから、頬へと軽くキスした。
肇子のクシャミの回数が多くなった。
会社に行っても家にいても、一つ出るとなかなかおさまらない。
数男と会っている時も同じだった。
「なんだか、季節を問わずの風邪みたいだな」
そうであってくれたなら、いっそイイと肇子は思うようなところがある。
村越との付き合いが深まるにつれて、くしゃみの出る頻度がめっきり多くなった。
ウサギさんのせいかなぁ、呟く暇にも、村越の顔が浮かぶ。
あれから幾度か村越の部屋へと言った。
気付けば、村越はその度違う名前で、ウサギを呼んでいる。
ミコちゃん、ジュンちゃん、ミキちゃん、サヤちゃん、というぐあい。
「日替わりなの?」
「一つの名前に決めたくなくってね。その日の気分で、呼んでみるのが好きなんだ」
ハッちゃんなんて呼んだら、きみは怒るかなと村越はおどけた顔で、肇子を見る。
肇子のハッちゃんってとこかしら、と肇子は笑ってやり過ごした。
それから、ヒト月が過ぎても、肇子のクシャミの出る頻度は、やっぱり多い。少しおさまって来たかと思えば、また増える。
村越のウサギさんの不調も続いている様子だ。
夏が終わる頃まで、もたないかもしれない、と村越は悲しがる。
肇子はそんな村越を見るのが辛かった。
ところが、真夏日続きのある日――その日は日曜日だったが――〝ウサギが少し元気になったようだ〟と村越からメールが来た。
村越のうれしげな顔をすぐにも見たくなって、肇子は村越の部屋を訪れた。
「何だか、調子が良くてね。餌もよく食べるようになったし、何といっても飼い主を見る顔というのが……」
「ハツラツとしているのね」
「そうなんだ」頷く村越の明るい表情が、肇子をほっこりやさしい気持にさせる。
そして、軽く息を付く調子、村越は言った――「そうそう、クシャミなんてのもあまりしなくなってね」
ああ、そうなんだと肇子は思わず頷きたくなった。
わたしもそうなのよ、と言い掛けたい気持は抑えたけれど、確かに肇子の不意のクシャミは、めっきりその回数を減らしていた。
あなたと符合しているのかしらねえ、とウサギさんの赤い眼とにらめっこをしたくなるのが、また何だか愉しい。
ウサギさんは、何度となく部屋を訪れている肇子にことさら懐く様子は見せないが、嫌っている風でもない。頭を撫で、耳をピンピンとさわっても、嫌がらない。
キスより先、村越との仲は進展していないが、肇子は気にしていなかった。
どうぞと村越が出してくれた冷えたコーラを、肇子はゴクゴクと美味しく飲んだ。
飲み切って、ヒト息つくと、あっとクシャミに襲われそうになったけれど、ガマンして、いいこ、いいこ、元気になってよかったね、とウサギさんの頭を撫で、耳をピンピンともう一度さわったところで、村越が言った。
「お付き合いしてくれていいかな」
え、お付き合いは疾っくにしているつもりだけれど、と怪訝な面持ちになる肇子は、次の瞬間笑った。
しばらく休んでいたウサギさんとの散歩を久しぶりやりたい、だから肇子さんもお付き合いしてくれないかと村越はお願いしているわけなのだった。
ケージから出たウサギさんに、村越は首輪を付けてやって、外に出れば、リードを握って、と全く立派なお散歩である。
「へー、犬なんかとおんなじなのね」
感心するばかりの肇子を尻目に、ウサギさんは、飛び跳ねまではしないものの、住宅街を元気に歩く。達者な足の動きに、ついこのあいだまで元気がなかったのに、と肇子は目を見張る思いがした。
「本日のお名前は何かしら?」
「散歩が上手な、サンちゃんとかね」
村越の機嫌の良さは言うまでもない。道行く人の誰にでも微笑みかけたくなる、そんな気分なのだろう。釣られて、肇子もウキウキとして来る。
村越さんは本当にいい人だ、もしかして、今プロポーズでもされたら、自分は透かさず、ハイとOKしてしまうかもしれない、とそこまで気分を高まらせるのはどうかと思ったが、それに近いキモチなっているかも、と肇子は思った。
リードをしっかり握る村越さんは、それからふと会社の話などし、数男みたいなライバルがいてくれるというのは全く有り難い、あいつのことを思うと頑張らなければと思うし、自分もあいつにとってそう思われる存在でいたい、と胸を張るようにした。
そんな間柄の二人の男性とお付き合いをしている自分を、肇子は、けっこイイじゃんとまたキモチを高ぶらせる。
すると、待っていたかのように、目の前の、お散歩上手なサンちゃんが、ぴょんと跳ねた。
あらーと肇子が目を丸くする間にも、続けて、ぴょん、ぴょん。
一行は住宅街を抜けて、雑居ビルなど幾つも立ち並ぶ賑やかな舗道を歩いているのだが、脇にはクルマなども次々走る。
賑やかさを増すばかりの辺りの光景に、ウサギのサンちゃんのぴょんぴょんがうまく嵌って、視界が和んだ。
「ところで……」
村越が神妙な声で、話しかけてきた。
「はい?」
「ええ……ところで」
一拍置くような話し方をしてくる村越に、あ、やっぱりプロポーズなんてされちゃうのかな、と肇子は気を逸らせる。もう一拍、呼吸を置いたその次、しかし、飼い主の呼吸を削ぐように、ウサギのサンちゃんに異変が起こった。
ぴょんぴょんの躍動が過ぎたのか、首輪に緩みが生じていたのか、リードから自由になったサンちゃんは急に、ビルの間の脇道へと、ぴょんぴょんと走り、そのまま消えた。
あっと表情を変えた村越が、後を追う。追いながら、「ハッちゃん」と消えたウサギを呼んだような気が、肇子はした。
「――なるほど、そういうわけだったのか」
数日後、数男に会った肇子は、村越のウサギさんの突然の失踪事件について話した。
この二三日の村越の元気のなさは目立つばかりで、数男も心配になって、どうしたのかと訊いてみたが、まあ体調が今一つでね、ぐらいの答えしか返って来なかったという。
昨日は到頭、村越は上司から呼び出しを受けた。仲のいい数男にも、心当たりはないかと打診めいたものがあったそうだ。
「しかし、まあ、ウサギがいなくなったのが原因で、とはあいつも言えなかっただろうなぁ」
そうよねぇと頷く肇子だが、ウサギを追う村越が、「ハッちゃん」と呼びかけたことまでは伝えない。
あの日、顔色を一気に変えた村越は狂ったように、サンちゃんサンちゃんとウサギさんの名前を呼んで、雑居ビルの脇道へと走った。肇子も、後を追った。なにしろちいさな生き物なのだから、建物のちょっとした隙間へといたずらに潜り込み、そのうち、ひょいと出てくるかもしれない、村越はそんな希望も抱くのか、周囲に目を凝らして、じっと突っ立ったままでいたりもした。
どれだけの時間が過ぎただろう。
「もう、帰ろう」
肩を落とす村越を見て、肇子も泣きそうになった。
〝飼っているウサギが行方不明になりました。保護などしてくださっている方はご連絡をお願いします〟。
村越は電信柱に貼り紙を張り、ネット上にも、ウサギの画像付きの書き込みをしたが、連絡は一向にない。
励ます会をしようじゃないか、とある日、数男が提案した。
いつもの居酒屋に、三人が揃う。
「もう、諦めたよ」
「希望は捨てるなよ」
「そうよ、そのうち、何か良い連絡が……そうよ、帰巣本能とかって言うじゃない。ウサギさん、うん、あなたのウサギさん、お利口さんだから、きっと」
「そうだといいんだけれど」
思ったほど、落ち込んだ顔はしていないようだと肇子は村越を見たかった。
酒が進むほどに、村越は事実明るくなった。だが、急に黙り込んだりもする。
飲み会がお開きになって、三人でタクシーに乗り、やっぱり肇子が最初に降りた。
部屋に帰って、シャワーを浴びた後、数男からの電話が入った。
「きみがタクシーを降りてすぐ、あいつったら、肇子さんにプロポーズなんてしたら、きみは怒るかい? なんて、オレに訊いたよ」
「あーら」
「あんたのウサギさんが見つかってからの話にしようぜって、オレはこたえた」
「そうなんだ」
「ああ」
あ、クシャミが出そうかしら、と肇子はそこで身構えそうになったが、クシャミに襲われることはなかった。ことさら、ガマンしてクシャミをおさえたということもなく、そうなった。
それから、ヒト月が過ぎてもウサギは村越の元に帰って来なかった。
もう今年の夏も終わろうとしていた。
肇子は、「そろそろ結婚してほしいんだ」との数男からのプロポーズを受け容れた。
「負けたよー」
と村割り切った顔で、二人を祝福してくれる村越は、新しいウサギを飼い始めていた。
「ハッちゃんって名前を付けたよ、なんて言ったら、怒られるかな、ご両人に」
とおどけながら、一度で覚えきれないような、英語の名前を、今思い付いたというような口ぶりで、村越は伝える。
「紹介するから、今度さ、2人で部屋に来てよ」
誘いながら、ハッちゃんハッちゃんとまた繰り返す村越を見ながら、何も言えない肇子は、久しぶりに込み上げて来そうなクシャミの予感に脅えた。
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