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さよなら
ベンチのあった場所に立つ。何もない。片手でベンチのあったところを触ろうとするけど、空を切るだけだ。
「ほんとに、何もなくなった……」
「これが私の能力」
静音がわたしの隣に来て何でもないように話す。
「ベンチ、どこ行っちゃったの?」
「さあね」
静音が扇子で顔を仰ぐ。わたしは今見た光景が信じられなかった。
「で、条件なんだけど」
「あ、うん」
そうだった。ベンチはあっという間に消してしまえたから、静音の能力は本物だということだ。
「二つあるの。まず私に関連するもの。これが一つ目の条件」
「どういうこと?」
「つまり、私に直接関係のないものは消すことができないの。さっきこのベンチを消すことができたのは私の通常のランチタイムの場所だったから」
「な、なるほど。でもわたしの記憶は消せないの? 静音とわたしは親友なのに」
静音がわたしを見ると難しい顔をする。
「悩ましいのよね」
「へ?」
「確かに私たちは親友だけど、私は歌の何もかもを知っているわけじゃないもの。歌の彼氏のことだって話に聞いて知ってるだけで、何が起こったのかだって全部把握しているわけじゃないし」
「あ……」
そっか、確かに静音には彼の話を聞いてもらっただけで、まだ会わせたことはなかった。
「歌の記憶を消せない理由が分かったでしょ? まあでも、たとえば私との共通の思い出なら消すことは可能よ」
「え、消さないで!」
「たとえばっつってんでしょうが……」
さっきから心臓がバクバクしてる。だって静音の『消す』能力が本物だったってことは……。
「言っておくけれど、人は消せないわよ」
「な、何も言ってないよ!」
そんな目で見ないで!
「意思のあるものを消すことはできないの。これが二つ目の条件」
「そうなんだ……」
まあそりゃそうだ。いや、別にわたしは何も思ってないけどね。ただちょっと一瞬だけどっかに行っててくれないかなあ、とかそういう話だから。
本当に人を消すなんてことができたなら、さすがに恐怖でしかない。
「まあできたとしても使わせないし、歌が本気で使うとも思えないけど」
「分かってくれてよかったよ……」
はあ、何かだんだんホラーじみた話になってきたな。
「で、どうするの? 色々話したけど、まだ夏をまるごと消し去りたい?」
「えっと、それは……」
どうしよう。静音の言うことはきっと本当のことだ。実際に目の前で見た。
夏を消し去ることができるなら、消し去ってほしいとは思う。ただ。
わたしは一つ気になってることを尋ねた。
「ねえ静音」
「何?」
「もし、夏を消し去ってしまった後にさ、もう一度夏を戻すことってできるの?」
「それは代償次第かな」
「どういうこと?」
「代償が必要なものはね。払う代償、それが大きければ大きいほど規模も大きく期間も長くすることができるわ」
「なるほ、ど?」
つまりは代償を払えばその価値によっては規模が大きいものでも消せると。……代償に条件はあるのかな。
「代償って、何でもいいの?」
「まあ。自分のものならね」
なるほど。それならわたしは。
「じゃあ、わたしの記憶は?」
「……」
名案とばかりにわたしが笑顔で自分を指さすと、静音はふうっとため息をつく。
「言うと思ったわ……」
「じゃあ」
「でも、それなら夏を消す意味が無くなるけど」
「いいの。だって夏ごと全部消し去ることができるんでしょ? だったら中途半端なことはしたくない」
「……あんたって本当に前向きね、悪い方の意味で」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくよ」
静音が空に手をかざそうとしたが、手を止めてわたしに顔を向ける。
「最後に一つ」
「何?」
「たとえ夏が戻っても、払った代償は戻せないわよ。それでもいいの?」
「……」
「今なら引き返せるわよ」
「いい」
間髪入れずわたしは答える。
「……」
「だって、夏が戻らなくなるのは困るけど、彼の記憶が戻らなくなって困る人はいないから」
「歌……」
「もう、パパッとやっちゃってよ」
静音がそれを聞くと、じっと黙ってわたしを見つめる。
「静音?」
「……ううん、大丈夫。じゃあやるわ」
静音が空に手をかざす。そしてゆっくりと左右に振る。
セミの声が、どんどん遠ざかって聞こえなくなる。そういえば夏が消えたら夏の虫はどうなるのかな。まあ、意思のあるものは消せないって言ってたから、多分大丈夫だろう。
そして、だんだんと記憶も薄れていくような気もする。
「……さよなら、歌」
「へ?」
そう言って知らない女の子が涙を見せて笑って消えていった。
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