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5
大学を後にした僕は、自宅とは反対方向の商店街へと向かっていた。すっかり歩き慣れた道を進み、古書店の前に立つ。
(このままじゃ帰れない)
いまの僕はきっと変な顔をしているだろう。自分でも何となくわかる。そんな顔で家に帰れば祖母や弟に心配をかけてしまう。
だからといって蘭葡さんに迷惑をかけていいわけじゃない。わかっているのに、やっぱり古書店へと足が向いてしまった。「はぁ」と小さく息を吐き、古書店のドアを開ける。
「あれ? 卓也くんじゃないか」
「蘭葡さん」
いつもと変わらない蘭葡さんの表情にホッとする。
「おやおや、名前のない黒猫が目の前を横切りでもしたかな?」
「黒猫は日本じゃ福猫ですよ。それに黒猫は車屋の……って、もしかして吾輩のモデルのほうですか?」
「もちろん車屋でもいいよ。いや、どうせなら三毛猫のほうがよかったかな?」
今日は夏目漱石の気分なんだろうか。僕は少しだけ笑って、蘭葡さんの隣に丸椅子を持って来て座ることにした。
「三毛猫、可愛いですよね。でも、猫は見ませんでした」
「それは残念だ。ということは、あのイケメンくんと刃傷沙汰にでもなったか」
「そんなことになってたら、僕はここに来ていません」
「それもそうだ」
少し薄暗いなかで蘭葡さんがにこりと笑っている。それだけで蘭葡さんの周りがパッと明るくなったような気がした。その明かりが僕の中のよくないものを少しずつ消し去ってくれる。
「それなら、イケメンくんの胸の内を聞かされたといったところかな。たとえばイケメンくんは昔から卓也くんのことが好きで、そうしていまも好きだった。それどころかド変態に成長している。あまりの変態っぷりに卓也くんはドン引きし逃げてきた、というのはどうだろう」
「さすがにそれは、ちょっと不憫な気がします」
僕の返事に「あはは」と大きな口を開けて笑う綺麗な顔に力が抜けた。無意識に力んでいたのか、首や肩が凝り固まっていたような感じまでしてくる。
「蘭葡さんは、どうして安藤が僕のことを好きだってわかったんですか?」
眼鏡を押し上げながら蘭葡さんを見た。
「あぁ、それは店の周りでイケメンくんを見かけたことがあるからだよ」
「本当ですか?」
「少なくとも十回は見ている」
だから蘭葡さんは「ストーカーをしてるだろう」と指摘したのか。自宅や店にいることが多い蘭葡さんでさえ気づいたというのに、僕は安藤の姿にまったく気がつかなかった。
「何度か目にしたイケメンくんの顔は、完全に恋を患っているものだった。まぁ、はじめは俺に恋しているのかと思っていたんだけどね」
そう言って笑う蘭葡さんは、決して自惚れているわけではない。僕が古書店でアルバイトを始めてから、実際何人もの人が蘭葡さんを口説いているのを見かけた。たまに心配になるくらい熱心な人もいるけど、誰かと付き合っているという話は聞いたことがない。
そういえば、蘭葡さんを口説く人の半分は男性だ。だから安藤の視線や気持ちに気づいたのだろう。
「イケメンくんから告白でもされたかな?」
「……はい」
「ということは、中学でのことは拗らせた恋心が原因だったか」
「もしかして、僕が話したときから気づいてたんですか?」
「さて、どうかな。ただ男というのは大抵が童心のままで、気持ちとは裏腹なことをしがちなものだからね。決定打になったのは、あのイケメンくんの顔だ。これは恋心を相当に拗らせているなぁと気づいたわけだ」
段々と蘭葡さんが探偵のように見えてきた。もしかしたら、いま書いているという推理小説に探偵が出てくるのかもしれない。
「さて、イケメンくんに告白された卓也くんとしてはどうしたい?」
「どう、と言われても」
ふと「沢渡のことしか考えられないんだ」と口にした安藤の姿が脳裏をよぎった。最後に見た色のない眼差しを思い出す。
「安藤のことは、正直怖いです」
どうしてそこまで僕にこだわるのか理解できない。まるで執着しているかのような様子は恐怖でしかないのに、話を聞きながら別の何かがわき上がるのを感じた。安藤を拒絶するのとは違う、むしろ仄暗い愉悦を含むような奇妙な感覚だった気がする。
「そう思うのは当然だね」
「もう、僕にかまわないでほしいと思ってます」
これが本心だ。それなのに「かまわないでほしい」と口にすると胸が痛む。二度と会いたくないと思っていたはずなのに、そうなるかもしれないと思うと胸が痛くて苦しかった。
僕は眼鏡を外して俯いた。額に右手を当てて考える。
自分の気持ちがわからない。もう大丈夫だと思っていたのに、また安藤に振り回されるんだろうか。安藤のことなんて頭から追い出せば済むはずなのに、どうしてもうまくいかない。
「いまの卓也くんはイケメンくんのことでいっぱいだ。さて、それはどうしてか。怖いからか、それとも別の何かがあるからか」
「なんだか本当に探偵みたいですよ?」
セリフのような話し方に、ほんの少し笑ってしまった。眼鏡を掛け直しながら顔を上げる。
「うん? そうかな。ううん、ちょっと入り込みすぎたか」
「何にですか?」
「ちょうど書き進めているところが探偵の出張るところでね。皮肉を言われたせいで、すっかり没頭してしまっているよ」
蘭葡さんの作品に皮肉を言ったのは、おそらく編集の仕事をしているという男性だろう。小さな出版社に勤める男性は幼馴染みと呼べるほど古い知り合いらしく、蘭葡さんが唯一敵わない相手だと聞いている。
「今回はなかなか大変そうですね」
「そうなんだ。あいつが言うには、これじゃあどっちが探偵でどっちが犯人かわからないということなんだけど、明確じゃないからこそ先が気になると俺は思っている」
「難しそうですけど、興味が湧きます」
「うんうん、やっぱり俺の真の読者は卓也くんだけだ。俺と捉え方が似ているんだろうね」
蘭葡さんの言葉に「そうかもしれない」と思った。僕は蘭葡さんの言わんとすることが何となく見えるし、蘭葡さんはそんな僕に創作の意見を求めることがある。
そういう蘭葡さんの言葉だから心が凪ぐのかもしれない。蘭葡さんの言葉は僕を俯瞰で見ているような感じで、ようやく自分のことを理解できる気になる。
「はてさて、問題はこの先かな」
「作品、完成しそうですか?」
「あぁ、違う違う。あいつに何を言われても書きたいように書くから小説の心配はしなくていいよ。そうじゃなくて、卓也くんとイケメンくんのことだ」
「別に、どうにもならないと思いますけど」
そう言いながら、ほんの少し視線を逸らした。安藤の気持ちは受け入れられないと結論は出ている。それなのに、なぜかはっきり決別を口にできなくて戸惑ってしまう。
「それは卓也くんの真実ではないね? いつもの卓也くんなら、もっとはっきり言葉にしているはずだ」
「そう、ですかね」
「少なくとも俺が見てきた卓也くんはそうだね。ということは、卓也くんはいま迷宮に陥っているということかもしれない。つまり、俺が解決する出番が来たということかな」
「解決って、やっぱり探偵みたいですよ」
「ははは。と言っても、卓也くんの私生活に土足で踏み込むような野暮なことはしないから安心してほしい」
「わかってます。僕は蘭葡さんのこと、すっかり信用していますから」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。あいつにも聞かせてやりたいくらいだ。よぅし、それならやはり俺が解決してみせよう。じっちゃんの名にかけて」
蘭葡さんらしくない最後の言葉に首を傾げた。そういうセリフを口にする登場人物がいただろうか。
「……あ。もしかしてあの漫画の主人公ですか?」
「そうそう。あぁでも、俺のじっちゃんとなるとただの古書店の店主だ。それじゃあ説得力がないなぁ」
あははと大きな口を開けて笑う蘭葡さんに、僕も思わず笑ってしまった。蘭葡さんは小説だけでなく漫画も読む。僕が普段あまり漫画を読まないと知った蘭葡さんが、この前貸してくれたのが高校生探偵が活躍する作品だった。
(そういえば、あの主人公は横溝正史作品に登場する探偵の孫って設定だったっけ)
立ち上がった僕は、店内の中央に置かれている棚に近づいた。「たしかこのあたりに」と思いながら目当てのものを手に取る。
「おや、今度は横溝正史か。きみの愛読書のラインナップが、ますます心配になってきたよ」
そう言いながらも蘭葡さんは笑顔のままだ。
「さて、臙脂色に渦巻く血に気づくのはどちらが先かな」
不穏な雰囲気を感じて視線を上げたものの、蘭葡さんは綺麗に笑ったままだった。
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