人間の国

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 鍵を回し外へ出た瞬間、生ゴミと鉄の混ざった嫌な空気が僕の体を通り過ぎていった。 鍵をかけ団地の階段を下りようと廊下の先に目をやると、子供を連れた女がこちらへ歩いているのが見えた。 僕は肩にかけた鞄を握り、母親と子供が自身の横を通り過ぎるのを待った。母親は僕に気づくと軽く会釈をし、そのまま何も話すことなく奥へ続く廊下を歩いて行った。 その間、手を繋いでいる子供は親指を咥えながら僕を見つめていた。僕は目を逸らし、階段の方へ足早に去った。  子供は嫌いだった。この世で最も生命力を感じる存在だったからだ。 産声を上げたその時から、彼らはこの世界で生きることを強制的に誓うのだ。 知性も力もない完全無垢な彼らこそ、この世界の動力なのかもしれない。それはこの世界から一刻も早く逃げ出したいと願う僕にとっては忌まわしいものだった。  階段を下りきった先に広がっていた街並みに、僕は今日もため息を吐き出した。 ビル、ビル、ビル…。空を隠してしまうほど高く多いビル。 人混み、車、排気ガス。忙しなく動く彼らのエネルギーとなる酸素は酷く穢れている。 ある者は腕の時計を見ながら足早に歩道を渡り、ある者は呑気に鼻歌を歌いながら歩く。またある者は道行く者たちに「資本主義者どもめ!」と怒鳴り、ある者は道端にすわる貧相な者を愚弄していた。 僕はそんな人間たちの間をすり抜けるようにして歩いて行った。面倒な輩は無視するのが一番である。 しかし僕の目の前に現れた男が僕の行く手を阻んだ。先ほどまで叫んでいた男だった。 「お前も資本主義者か?」 「…わかりません。僕は政治については全くの無知です。」  周りの人間は僕へ憐みの目を向けた。同時に、この奇妙な男の標的が自分へ向けられなかったことの安心感に浸っているようだった。 男は僕の心臓部分を指差した。 「非国民め!」  僕は訳がわからず、ただ吹いている生ぬるい風に髪を靡かせることしかできなかった。 男は機械のように何度もその言葉を繰り返し僕に叫び続けていた。怖くはないが、少々苛立った。僕は非国民でもなければ愛国者でもない。毎日を抜け殻のように過ごしているただの人間だった。決めつけられては困る。  結局僕は彼を無視し職場へ向かった。彼を横切る時、微かに黴の臭いが鼻を突いた気がした。 連なるビルの上を飛行機が飛ぶ。生ゴミの臭いが立ち込める横断歩道を渡り、謎の集団が並ぶ大通りを歩く。 「あなたも一冊どうです?」  集団の隅にいた女が僕に本を差し出した。 黒い表紙に一羽の鳩が描かれた本だった。そこには題名も著者も書かれてはいなかった。 「なんですか?」 「聖書です。」  女は酷くやつれた顔だった。 僕はもう一度聖書とやらに目を向けた後、首を横に振った。
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