人間の国

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「結構です。」 「どうして?」 「僕には本を読む時間がありませんから。」  僕はその場を立ち去ろうと足を一歩動かした。すると女は本を無理やり僕に持たせようと、僕の手を掴んできたのだ。 僕は脱兎の如くその場から逃げ出した。そのまま坂道を上り、一回も振り返らず職場への道を駆け抜けた。 何度息が切れても決して止まりはしなかった。おかげで喉が痛み、膝にもかなり負荷がかかってしまった。  職場の入り口には並木が列を成している。どの木にも葉は一枚も生えていなかった。大気の影響だ。 僕は並木道を歩きながら職場の控え室へと向かった。時折遠くからサイレンの音が聞こえ、振り向けば赤い光を放ちながら救急車がすっ飛んでいった。 喧しいサイレンの音を聞きながら、僕は職場の扉を開けた。中から出てきた男とぶつかりそうになったが、軽く舌打ちをされただけだった。 廊下を歩けば何人かの人間とすれ違う。 「お疲れ様です。」  そう頭を下げても誰一人挨拶を返す者はいなかった。挨拶は基本だと言っていた上司でさえも、何も言うことなく僕の横を通り過ぎていった。 控え室の扉を開け、僕は自身のロッカーへ向かった。鍵を回し、中を見ればそこには作業着と二本のペットボトル。 僕はペットボトルを取り出すと、中身を勢いよく飲み干した。生ぬるい栄養ドリンクの味がした。飲まなければよかった。 それから鞄を狭いロッカーへ仕舞い、作業着に着替えていると不意に背中を誰かに突かれた。 「やあお疲れ。」  同僚の男だった。僕の職場で唯一僕に話しかけてくれる人物である。僕は軽く頭を下げ、袖に腕を通した。 「テレビ見たか?世界の人口が百億突破しそうだってな。世界の終わりも近いかもなぁ。」  彼は僕の隣のロッカーからスプレー缶を取り出すと、それを自身の体へ吹きかけた。 ミントの強烈な匂いが辺りに漂う。僕は彼に見えぬように顔を顰めた。 「次の職は早めに見つけたほうが良いかもな。お前も俺もこの会社もこの国も、いつ潰されるかわかんねぇからな。」  彼はボタンを留める僕に向かってそう言った。正直、そんなこと僕は興味がなかった。 「だが国のリーダーなんて決めてる場合じゃねぇよな。この人口増加について真剣に議論しあうべきだろ?」  ロッカーの鍵を回し、僕は控え室の出口へ向かう。そして彼に向かってただ一言だけ返事をした。 「…そんなこと今更決めたところで遅いだろう。」
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